前回は、柳川の歴史を年表形式でイッキに見てきました。
そこで今回からは、柳川と立花家の歴史のポイントをじっくりとみていくことにしましょう。
それでは、柳川誕生の物語からスタートです。
柳川誕生
柳川は、鎌倉時代から文献に登場する地名で、筑後国山門郡にあって、簗川・梁川・梁河・柳河などと表記されています。
最初に述べたように、このままだとややこしくなるので、基本的に本文では「柳川」の表記で統一しますのでご承知ください。
その後、戦国時代になると、蓮池を本拠とする蓮池氏の勢力下となっていたようです。
そして柳川市本城町付近に城が築かれるのですが、それを文亀年間(1501~1504)に蓮池治久によるとする説があります。
いっぽうで、永禄年間(1558~1570)に治久の孫鑑盛によるとする説もあって、築城年代は確定していません。
いずれにせよ、蓮池氏の本拠・蓮池城の支城としての役割を果たしていたのでしょう。
蓮池氏の興亡
長瀦郡を支配した蓮池氏は、長く豊後の大名・大友氏に臣従してきました。
しかし、鑑盛の子鎮並は、龍造寺隆信の筑後侵攻のために天正6年(1578)に大友宗麟のもとを離れて肥前の新興大名である竜造寺隆信に属したのです。
ところが鎮並は処遇に不満を抱くようになり、ついに天正8年(1580)2月に龍造寺家反旗を翻して柳川城に籠りました。
鎮並は龍造寺軍の猛攻に耐えて、ついに11月に山門郡鷹尾城主田尻鑑種のあっせんにより和睦。
しかし鎮並はまたもや異心を抱くようになって薩摩の島津家に通じようと考えました。
これをいつ早く察知した龍造寺側は、天正9年(1581)5月に本拠の佐嘉(佐賀)城へ鎮並を招きます。
策略が漏れたとも知らぬ鎮並は、招きに応じて佐賀に向かい、なんと謀殺されてしまったのです。
こうして柳川城を手に入れた龍造寺隆信は、重臣の鍋島信生(直茂)や竜造寺家治を派遣して柳川城を護らせました。
大友軍の来攻
今度は、大友宗麟は天正12年(1584)、重臣の立花道雪と高橋紹運らを派遣して柳川城を攻撃します。
これに対して龍造寺政家は、島津家に和平を求めるとともに救援を要請しました。
じつは道雪と紹運もまた、政家を討伐する一方で、島津家へ共同して政家を討つことを提案していたのです。
龍造寺と大友両家からの要請に対して、島津家は、いずれ柳川を自らのものとする目算をもって、政家の和平に応じたのでした。
ここまで柳川の誕生から天正の大友軍襲来までをみてきました。
ところで、立花家ってどのような家柄なのでしょうか。
そこで次回は、立花家のはじまりについてみてみましょう。
《今回の記事は、『福岡県史』『角川日本地名大辞典』『福岡県の歴史』『国史大辞典』をもとに執筆しました。》
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