横浜が生まれた日

横浜開港記念日

6月2日は、横浜開港記念日です。

これは、安政五ヵ国条約に基づき、安政6年6月2日(1859年7月2日)に開港したことにちなんで昭和57年(1982)に制定されました。

そこで、横浜の歩んだ歴史を振り返ってみましょう。

横浜開港までの道のり

嘉永6年(1853)、東京湾にアメリカ東インド艦隊司令官ペリーが艦隊を率いて来航したころの横浜村は、家数がわずかに92軒、横浜新田を含めても101軒で、村内には雑木が生い茂り、白昼でも狐がでるような寒村でした。

ところが、翌安政元年(1854)にペリーがふたたび来航すると、日米和親条約締結の応接所を設置する場所に横浜村が選ばれて、一躍脚光を浴びました。

『御開港横浜正景』(錦港堂、19世紀 国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【『御開港横浜正景』】

そして安政5年(1858)6月調印の日米修好通商条約において、神奈川も開港場の一つと決められたのですが、幕府は「神奈川」港について、神奈川宿の一部として、対岸の横浜村を建設地に選んだのです。

そして、アメリカ総領事ハリスやイギリス総領事オールコックらの猛反対にもかかわらず、幕府は安政6年(1859)春から9万両を投じて開港場建設を強行し、突貫工事によって条約で定められた6月2日の開港にこぎつけます。

横浜開港場

開港時に横浜の中心となったのは、寛文7年(1667)に大岡川河口の内海を埋め立てた吉田新田ですが、工事は現在の横浜駅周辺、明和年間(1964~72)に帷子川河口地域を干拓した尾張屋新田周辺からはじめられました。

工事では、まず本牧台地から延びる砂州地を整備、6月までに波止場、本町をはじめとする5ヶ町からなる日本人町・外国人居留地、さらに年末までに遊郭の港崎町がつくり上げられたのです。

さらに翌年には、横浜元村と居留地の間に堀割が開削され、開港場は水路と関門により隔てられた「関内」と呼ばれることになります。

明治30年頃の横浜港(『日本之名勝』瀬川光行 編(史伝編纂所、明治33年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【明治30年頃の横浜港(『日本之名勝』より)】

横浜改造

慶応2年(1865)横浜のおよそ三分の二を焼失させた「豚屋火事」をきっかけに、「横浜居留地改造及競馬場墓地等約定」が締結されて、大幅な都市再建策が実行されることになります。

馬車道や日本大通りをはじめとする道路、下水道、河川、横浜公園、さらには山下海岸の関内新居留地などが建設されて、現在の関内地区の原型が作り上げられました。

開港により、外国商社や商人が続々と進出して、横浜は目覚ましい発展を遂げて、日本で最大の貿易港としての地位を築き上げていったのです。

鉄道開通と横浜港第一期築港工事

横浜は東京の外港となりましたが、じつは約20㎞も離れていて、その間の輸送が大きな問題となっていました。

そこで、明治5年(1872)に新橋―横浜(現在の桜木町)間に日本で最初となる鉄道が開通したのをはじめとし、明治22年(1889)には東海道線が開通して東京との距離がぐっと縮まったのです。

さらに横浜商人の希望により、養蚕地帯の八王子と直結する横浜鉄道、現在のJR横浜線が開通するなど、鉄道輸送と結びついて横浜港はますます発展していきました。

いっぽうで、横浜の町は急速に膨張しましたが、明治政府は資金難から横浜港の港湾建設ができていなかったのです。

ここに明治16年(1864)、アメリカが下関戦争(馬関戦争)の賠償金78万5,000ドルを全額返還してきたために、これを主要資金として外航船が直接接岸できる港湾施設の整備にかかります。

明治22年(1889)9月からイギリス陸軍工兵少将パーマーの設計・監督のもと、二条の防波堤と鉄製大桟橋を架設、明治29年(1896)3月に完成して、横浜港の基本的な枠組みが出来上がったのです。

1910年の横浜(Wikipediaより20220525ダウンロード)の画像。
【1910年の横浜(Wikipediaより)】
明治末から大正時代の横浜(Wikipediaより20220525ダウンロード) の画像。
【明治末から大正時代の横浜(Wikipediaより) 】

横浜の発展

開港により貿易がはじまると、江戸をはじめ関東一円から人々が集まって人口が急増します。

開港時には5ヶ町だった横浜は、明治11年(1878)には戸数1万6,900、人口5万5957人となって神奈川をしのぐ大都市に征長、さらに明治22年(1889)には138ヶ町、戸数2万7,209、人口12万1,985人となって市制を施行、人口も11万8,000人あまりとなりました。

さらに市域の拡大と市の発展は続き、昭和10年(1935)には人口約96万8,000人の大都市になりました。

復興からの発展

大正12年(1923)に関東大震災により横浜は壊滅的打撃を受けました。

ようやく復興が成ったところで、今度は第二次世界大戦で米軍機による空襲を受けて再び壊滅してしまいます。

さらに、戦後はアメリカ軍による施設の接収を受けましたが、昭和42年(1967)以降は返還が進みました。

横浜港(昭和22年撮影空中写真)(国土地理院Webサイトより、USA-M223-52〔部分〕) の画像。
【横浜港(昭和22年撮影空中写真)(国土地理院Webサイトより、USA-M223-52〔部分〕)  港湾機能は復興していますが、市街地は一面の焼け野が原となっています。】

戦後は臨海工業地帯の発展と、大都市東京の膨張を背景として、急速に都市化が進行していくことになりました。

昭和59年(1984)からは21世紀に向けたウォーターフロント開発として「みなとみらい21」地区186haの開発事業がスタートします。

平成元年(1889)に開港130周年と市制100周年を記念して横浜博覧会を開催、平成5年(1993)には当時日本一の高層ビル・ランドマークタワー(196m)が完成するなど、発展を遂げています。

横浜は現在も進化を続けているのです。

横浜港(平成16年撮影空中写真)(国土地理院Webサイトより、CKT20041X-C3-8〔部分〕) の画像。
【横浜港(平成16年撮影空中写真)(国土地理院Webサイトより、CKT20041X-C3-8〔部分〕)】

(この文章は、『国史大辞典』『角川日本地名大辞典』『日本史大事典』『明治時代史大辞典』の関連項目を参考に執筆しました。)

きのう(6月1日

明日(6月3日

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