前回は浅野忠吉が築いた新宮城についてみてきました。
そこで今回からは、新宮の領主となった水野家についてみていきたいと思います。
まずは水野家がどのよう歴史があるのか、そのはじまりからみてみましょう。
水野氏のはじまり
水野氏の初代は重房で、尾張国知多郡阿久比(英比)郷小河、現在の愛知県知多郡東浦町に住んで、小河氏を名乗ります。
二代重清は源頼朝仕えて、尾張国春日井郡山田庄水野、現在の瀬戸市に移って山田あるいは水野を名乗るようになりました。
その後、長享元年(1487)没と伝えられる十三代貞守は三河国碧海郡刈谷に進出して城を築きます。
水野忠政
そこから徐々に水野氏は周辺へと勢力を広げて、貞守から数えて四代、十七代忠政は、小河・刈谷のほかに、大高(現在の名古屋市)・半田・西尾などに進出します。
勢力を拡大した忠政は、娘の於大の方(のちの伝通院)を三河国岡崎城主の松平弘忠に嫁がせました。
こうして於大は嫡男家康を生みますが、忠政の跡を継いだ信元は、織田氏と結んで松平氏や今川氏と対立したために、離縁となってしまいました。
信元は織田信長に仕えて戦功をたてましたが、讒言によって殺されてしまうことになり、弟の忠重が水野家を継ぎます。
水野重仲(重央)【みずの しげなか・1570~1621】
一方、忠政の男で信元の弟・忠分の三男・重央(重仲)は、三河国刈谷城主水野忠政の八男藤次郎忠分の三男として生まれます。
幼名は藤四郎、または藤次郎で、のち重信、重央などと称しました。
天正4年(1576)、弱冠7歳で徳川家康の近侍となり、さらに天正16年(1588)には大番頭となって5,500石を与えられます。
さらに、文禄元年(1592)2月1日には武蔵国と上総国に合わせて1,500石を加増されて、都合7,000石を領するようになったのです。
慶長6年(1601)5月21日には対馬守となって重信と称し、この時点では藤原姓を名乗っています。
さらに、のちには出雲守となりました。
慶長12年(1607)12月には命により主君が家康から十男頼宣とかえられて、傳となって常陸国で1万石を与えられます。
慶長14年(1609)12月22日には、頼宣が常陸国から駿河・遠江二国に国替えとなったのに伴って、遠江国浜松城主となり、1万5,000石を加増されて、都合2万5,000石を与えられました。
なお、慶長15年(1610)に安藤直次が頼宣の傳となったので、重仲は直次と同格の老中席となります。
大坂冬と夏の陣に、頼宣に従って出陣しています。
元和3年(1617)10月24日に、秀忠から遠江と駿河の内に合わせて1万石を加増されて、都合3万5,000石を領するようになりました。
元和5年(1619)7月19日、頼宣の紀州転封にともなって紀伊国新宮城に移り、3万5,000石を領します。
重仲は和歌山藩の付家老として江戸に滞在し、以後代々江戸市ヶ谷浄瑠璃坂の屋敷に居住しました。
その後も重仲は新宮に来ることのないまま、元和7年(1621)11月12日に和歌山において52歳で死去しています。
ここまで水野氏のはじまりから新宮水野家誕生までをみてきました。
そこで次回は、新宮水野家の歴史をみていきたいと思います。
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