《最寄駅:都営地下鉄大江戸線・東京メトロ半蔵門線 清澄白河駅》
安政2年(1855)に松平慶倫が津山松平家を相続した時、津山藩には鍛冶橋に上屋敷、高田に下屋敷、深川西大工町と谷中本村に抱屋敷(私有地)と砂村新田に広大な抱地(私有地)がありました。
また、隠居した松平斉民(確堂)は、蠣殻町に浜町中屋敷と隣接する清水家屋敷を御預けとされたほか、さらに姿見邸を設けています。(『津山市史 第5巻-幕末維新-』)
今回はこのうち、深川西大工町の抱屋敷跡と周辺を歩いてみましょう。(グーグルマップは清澄白河2丁目公園を示しています。)
精華堂あられ総本舗
津山藩下屋敷跡は、現在の東京都江東区清澄2丁目にありました。
最寄りの駅は清澄白河駅、都営地下鉄大江戸線と東京メトロ半蔵門線が乗り入れています。
清澄白河駅A1出口を出ると、左手に小名木川と髙橋が見えますが、その反対の右側の交差点へ。
これを西へと曲がってしばらく歩くと、あられ屋さんが見えてきました。
この精華堂あられ総本舗は昭和10年創業の老舗、無農薬原材料でつくったあられは大人気店、知る人ぞ知る名店です。
深川稲荷
あられ屋さんを越えて角まで行くと、南側に深川稲荷が見えてきます。
深川稲荷は寛永7年(1630)創建、江戸時代の地名・西大工町から西大稲荷と呼ばれて親しまれてきました。
深川七福神のひとつ、布袋尊として訪れる方も多いのですが、社務所が開くのは正月とイベント時のみ、地元町会がいつも清潔で美しく守っておられます。
清澄2丁目公園
深川稲荷から西方向へ50mほど行くと、清澄2丁目公園に到着です。
公園には立派な冠木門が作られていて、かつてこの辺りに多く見られた邸宅を彷彿とさせてくれます。
この公園がおおよそ津山藩深川抱屋敷の北東角、いよいよ屋敷の跡地に到着しました。
清澄2丁目公園の斜め向かいには大鵬道場大嶽部屋が見えてきます。
このあたり、車で10分ほど行くと国技館という位置にあるためか、相撲部屋がいくつか並んでいます。
大嶽部屋のある街区を含む四ブロックがかつての津山藩深川下抱屋敷の跡地ですが、その痕跡は残っていません。
これは、関東大震災とその復興事業、さらに東京大空襲とバブル、幾度も町の姿をがらりと変える出来事があったからなのでしょう。
三野村株式会社社屋
大嶽部屋のある交差点を南に曲がると、清洲橋通に出てきました。
そして角には、立派なテラコッタのあるモダンな建物が!
これは三野村株式会社の社屋、全体的な雰囲気と清洲橋通との位置関係から昭和初期の建物のようです。
ドラマのロケ地にもなっているようですが、詳しい情報は公開されていません。
でも、三野村利左衛門ってどっかで聞いたような…「東京 橋の物語 鎧橋編」で出てきた三野村利左衛門!
三野村利左衛門(1821~77)は三井家の大番頭で、傾きかけた三井家を一気に近代的な組織に改編、三井財閥を作り上げた幕末・明治初めの伝説的ビジネスマンです。
三井物産や第一国立銀行を設立、三井銀行を作っているときに急逝してしまいました。
じつは、この辺りが三野村利左衛門住居跡。
その歴史は、明治時代はじめ、清澄庭園を設けた三菱に対抗して、三井がここに迎賓館を作ったことにはじまります。
そして、この屋敷を三井の大恩人、三野村利左衛門にその功績に感謝を込めて贈ったのでした。
しかし贈られた翌年の明治9年、三野村利左衛門は病のためこの屋敷で急逝しています。
この屋敷について、もっと詳しく見てみましょう。
地籍図では大正時代元年に、東京市深川区西大工町に三野村倉二名義の宅地が7筆合計7,714.81坪、さらに三野村安太郎名義の宅地6筆合計2,037.97坪が確認できます。(『東京市及接続郡部地籍台帳』)
合計で9752.78坪ですが、地籍地図と合わせてみると、津山藩深川下屋敷に東隣の屋敷、「本所深川圖」で記された戸田邦之介屋敷を合わせた範囲なのがわかります。
ちなみに、津山藩深川下屋敷の南半には本誓寺が移転してきてるのですが、関東大震災復興事業で清洲橋通が作られた際に現在地に移転していますので、三野村邸の中心は、東隣の戸田家屋敷であったと思われます。
そして三野村利左衛門が亡くなった後は、借家や貸店舗としてこの土地を運用していたのでしょう。
三野村株式会社は、三野村家の資産を運用する会社だったのです。
ここまで見てきたように、津山藩深川下屋敷は、明治時代になってすぐに北半分は三井家の手に渡り、そのすぐ後に三野村左衛門へと贈られました。
そして三野村の死後は、三野村株式会社が管理運用するとともに、その一角に本社ビルを構えたのです。
新小名木川水門
今度は、三野村ビルから北方向、再び小名木川に向かって歩くと、およそ100mで丁字路に当たり、その向こうに高い堤防が見えてきます。
これが小名木川の堤防で、そしてそのさらに向こうにひょっこり巨大な水門が頭を出しているのが見えますが、これが新小名木川水門、径間11mのゲートが三連、高さが7.8mという巨大な水門で、昭和36年度に完成しました。
この水門は、長い間、台風などで高潮被害に苦しんできた東京の東部低地帯を水害から守るために防潮堤や護岸と共に整備されたもので、甚大な被害をもたらした昭和34年の伊勢湾台風規模の水害に対応できるように設計されています。(東京都建設局HPより)
なお、「新」がついているのは、小名木川水門が旧中川の南端に設置されていたものと区別するために附されましたが、昭和51年にこちらは廃止されています。(江戸川区HPより)
萬年橋
新小名木川水門をあとに、小名木川に沿って西へ進みましょう。
50mほどで、小名木川に架かる古風なトラス橋が見えてきました。
この橋が萬年橋、歴史ある橋で江戸の昔からこの町のシンボル的存在の名橋です。
萬年橋が架設された年代ははっきりしないのですが、延宝年間(1680)の江戸地図にこの橋が描かれています。
船を通すために大きく高く作られているために、この橋が描く優雅なアーチは江戸っ子の心をとらえ、浮世絵の題材にもなりました。
とくに、葛飾北斎と安藤広重の作品は、国内のみならず世界的に評価される名作。
また現在の萬年橋は、関東大震災からの復興事業で昭和5年(1930)に架け替えられたもので、力強く構造美が素晴らしいこの橋は、復興橋を代表するものの一つに数えられる名建築です。
霊雲院跡
今度は橋の西側に行ってみましょう。
ここにはかつて、曹洞宗天王山霊雲院の広大な境内が広がっていました。
この霊雲院が津山藩深川下屋敷の西隣に当たります。
かつて源頼朝が伊豆の山中に建てたという嶺雲寺が宝暦7年(1757)にこの地へ移り、将軍家から手厚く保護を受けていました。
関東大震災をはじめ幾度も火災に遭って、東京大空襲で全焼した後は東村山市へと移転しています。
残念ながら現在、霊雲院の痕跡を示すものは残っていません。
この霊雲院跡の道向かいに、洋菓子メーカー・エーデルワイスの工場があり、いつも行列ができるくらい賑わっています。
ふたたび萬年橋まで戻って、今度は萬年橋からのびる萬年橋通を南へ歩いてみましょう。
かつての藩邸を50mほど行くと、清洲橋からのびる清洲橋通に行き当たります。
臨川寺
このまま清洲橋通を西に行くと、通りの南側にモダンな建築物のお寺が見えてきました。
このお寺が臨川寺、松尾芭蕉の師である佛頂(1641~1715)が江戸滞在中に宿所として作ったお寺です。
先ほど見た萬年橋の北に住んでいた松尾芭蕉が、佛頂和尚をしばしば訪れたんだとか。
ちなみに、佛頂和尚は鹿島根本寺の僧でしたので、芭蕉の『鹿島詣』はこの鹿島の佛頂和尚を訪ねた旅でしたし、『奥の細道』でも和尚の修行の地を訪問しています。
臨川寺を出て清洲橋通を東に70mほど行くと、清澄通りと交わる清澄三丁目の交差点に到着、交差点の東と南に入り口から地下鉄清澄白河駅に戻ってきました。
ここで今回の散策は終了、コースは平坦で歩きやすく、ゆっくり見て回って約1時間の行程でした。
津山藩深川西大工町抱屋敷跡を歩いてみましたが、その痕跡は全く見当たりませんでした。
しかし、町には関東大震災や東京大空襲の中でも守られてきた伝統を感じることが出来ましたし、江戸時代の息吹も感じることができたように思います。
ちなみに今回、津山松平家深川抱屋敷跡を巡ってきましたが、ゴール地点から交差点を南に60mほど行って西側に曲がると、岩崎家が整備した清澄庭園に至ります。
また、清澄通を100mほど行って東に曲がると、松平定信の墓所がある霊巖寺と、江戸文化を学べる深川民俗資料館があります。
ぜひみなさん足を延ばしてみてください。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。
また、文中では敬称を略させていただいております。
引用文献など:
『東京市及接続郡部地籍台帳』東京市調査会(1912)
『藩史大辞典 第6巻 中国四国編』木村礎・藤野保・村上直(雄山閣、2015)
東京都建設局HP、江戸川区HP
参考文献:
『深川区史 上巻』東京市深川区編(東京市深川区史編纂会、1926)
『江東区史年表考 中巻 明治大正時代』江東区史編纂委員会編(江東区史編纂委員会、1955)、『津山市史 第5巻-幕末維新-』津山市史編さん委員会(津山市役所、1974)
『角川日本地名大辞典 13 東京都』「角川地名大辞典」編纂委員会(角川書店、1988)、
『江東区史』東京都江東区役所編(江東区役所、1997)、
『江戸・東京 歴史の散歩道1 中央区・台東区・墨田区・江東区』街と暮らし社編(街と暮らし社、1999)
次回は、松平確堂が隠居所を置いた姿見邸を歩いてみましょう。
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