津山藩高田下屋敷跡を歩く【維新の殿様 松平家・津山藩(岡山県)⑯】

《最寄駅:東京メトロ東西線・早稲田駅》

安政2年(1855)に松平慶倫が津山松平家を相続した時、津山藩には鍛冶橋に上屋敷、高田に下屋敷、深川西大工町谷中本村に抱屋敷(私有地)と砂村新田に広大な抱地(私有地)がありました。

また、隠居した松平斉民(確堂)は、蠣殻町に浜町中屋敷と隣接する清水家屋敷を御預けとされ、さらに姿見邸が置います。(『津山市史 第5巻-幕末維新-』)

今回はこのうち、新宿区喜久井町の下屋敷跡と周辺を歩いてみましょう。(グーグルマップは夏目坂を示しています。)

津山藩高田下屋敷コースマップの画像。
【津山藩高田下屋敷コースマップ】

夏目坂

スタートは東京メトロ早稲田駅の2番出口、ここを出てすぐ右手に見えるのが夏目坂です。

そして信号を渡ったところに建っている「夏目漱石誕生之地」という立派な碑が目に飛び込んできました。

明治の文豪・夏目漱石は、慶応3年(1867)に喜久井町で代々名主を務める夏目家に生まれたことを示す記念碑です。

現在まで続く喜久井町の名が夏目家の家紋に由来しているのに加えて、夏目坂の名も先祖が自ら名づけたもの。

漱石が幼少時代を過ごしたことから、この近辺は漱石の作品にたびたび登場しています。

「夏目漱石」(『漱石全集 第5巻』夏目漱石(漱石全集刊行会、1924)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「夏目漱石」『漱石全集 第5巻』夏目漱石(漱石全集刊行会、1924)国立国会図書館デジタルコレクション】

それではさっそく夏目坂を上っていきましょう。

はじめ緩やかだった上りも途中から結構急になって、この合わせて180mほど上り切ると、平坦な面に出ます。

道をはさんで北側は住宅街になっていますが、南側は対照的に立派な寺が並ぶ寺町になっているのがわかります。

この夏目坂を上り切ったところに信号があり、現在の夏目坂通は南へと曲がっています。

津山藩高田下屋敷跡地

この信号の少し手前、坂の途中にある信号の近くに、北に向かう細道があったのを覚えていますか?

現在は全く目立たないこの角、じつはここが広大な津山松平家の保有地南西隅なのです。

さっそく、この細道からかつての高田藩邸に入ってみましょう。

かつての藩邸は、車一台が通れるくらいの細道で方形に区画されているのですが、この道はすぐに急な坂道へと変わっていました。

傾斜地はひな壇状に整地されているのですが、よく見ると大谷石を積み上げた古そうな石垣がそこここに残っているのが目を引きます。

なかでも傾斜の底近くに造られたしらゆり児童公園に残る石垣は見事なものですが、さすがに経年変化で変形していました。

この石垣、作風や印象から、明治前期ころのものではないでしょうか。

さて、下屋敷の敷地はさらに北へと広がっていて、しらゆり児童公園の道向かいの牛込第二中学校と新宿区立早稲田小学校・幼稚園の大半が推定範囲内です。

そこで、小学校と中学校を隔てる道を北へ向かうと、グランド部分に先ほど見たのと同様の大谷石の石垣があるではありませんか!

牛込二中と早稲田小学校の間の道の画像。
【牛込二中(右)と早稲田小学校(左)の間の道、牛込二中の石垣に注目です。】

そしてこの道が丁字路になるところの西側を、幕末頃に拡張したと思われる約450坪の部分が見えます。

ここで振り返って牛込第二中学のグランド越しに高田下屋敷の敷地を見渡すと、その地理的特徴がはっきり見えてきました。

中・小学校のある下段の平坦面、そこから崖面があって上段の平坦面とで構成されているのです。

また目を凝らしてみると、上段の平坦面にも2mほどの段差があって、さらに二段に分かれているように見えてきます。

そこで、再びしらゆり児童公園まで戻って、今度は東側の道から崖面を上ってみましょう。

結構急な坂道で一部が切通になっているのがわかります。

そして、ここにもちょっと風化していますが先ほどと似通った大谷石の石垣が見えました。

坂道を登って上の段の平地に出ると、先ほど遠くから観察した段差が住宅の奥に見えるのですが、ここにもあの大谷石の石垣がしっかりと残っています。

地図上で確認すると、そこここに見られた大谷石の石垣の分布範囲が、大正元年の地籍図で確認した津山松平家の所有地と見事に重なっているではありませんか!

年代を勘案すると、あの大谷石の石垣は、家作を作った時のものではないでしょうか。

そして、前にみた夏目坂を上った辺りが、道をはさんで寺町と住宅地に分かれていたのも、坂の北側がかつて藩邸であったことに由来していると考えるのが自然でしょう。

ここでしらゆり児童公園まで戻って休憩しながら、津山藩高田下屋敷についておさらいしてみましょう。

「高田下屋敷」(『大久保繪圖』戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永7年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【「松平越後守」とあるのが高田下屋敷(『大久保繪圖』戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永7年)国立国会図書館デジタルコレクション) 】

津山藩高田下屋敷とは

さて、ここで改めて津山藩高田下屋敷についてみてみたいと思います。

高田下屋敷は、絵図や文献で宝暦年間(1751~1764)から確認でき(『藩史大辞典』)、範囲を変えることなくその後幕末まで使われていたようです。

確認したところ、元禄12年(1699)絵図にも記載がありましたので、松平家津山藩が成立した時に設立したのかもしれません。

注目すべきは、幕末にここで炮術稽古、つまり射撃訓練が行われたとする文献がある事です。

『津山市史 第5巻-幕末維新-』によると、嘉永6年(1853)ペリーに続いてロシアのプチャーチンが長崎に来航するに至って、幕府からの指示により津山藩士は高田屋敷で鉄砲の稽古を開始、さらに大砲の打ち方や取り扱いも鍛錬しました。

先ほど見たように、高田藩邸の北端部分におよそ500坪を加えているもの射撃訓練に当てるためだったのかもしれません。

もしそうだとすると、崖面に向かってちょうど一町の長さの射撃場が確保できたことになります。

さらに幕府からは津山から大砲や鉄砲を運び込みこむ許可が出されるとともに、津山藩の海防対策担当者だった植原六郎左衛門の出府を要請されました。

また、ペリーが再訪した際には高輪に警固の陣所を構えて警護に当たるとともに、幕府から一貫目玉の筒三挺と、一貫目玉実丸300粒などが貸与されています。

これらは高輪の陣所に配備されたのですが、これに国元から運んだものと合わせて最終的に陣所には先の一貫目玉筒三挺に加えて300匁玉筒など7挺の大砲、10匁玉と4匁3分玉合わせて95挺の鉄砲が配備されていたのです。(『津山市史』)

国元ではペリー来航前から砲術、当時の用語でいう炮術の訓練が盛んにおこなわれていたことから、高田邸では小型の火器による射撃訓練が中心で、大型の火器については操作方法の訓練が行われたものと推察できます。

いずれにせよ、一時的に津山藩高田邸が砲術の中心になっていたことには驚きを隠せません。

また、安政6年(1859)2月22日に高田藩邸が類焼した火災と砲撃訓練の関係性が気になるところですが、この点は解明できませんでした。

「高田下屋敷跡」(『明治東京全図』明治9年(1876)国立公文書館デジタルアーカイブ)の画像。
【「四十一、四十一ノ内」とあるのが旧高田下屋敷跡(『明治東京全図』明治9年(1876)国立公文書館デジタルアーカイブ )】

明治維新後の高田下屋敷

高田藩邸のその後を見てみましょう。

慶応4年(1868)9月5日に新政府は藩邸の整理方針を発表し、その整理に着手します。

そして津山藩は新政府に浜町中屋敷と高田下屋敷拝領を願い出た結果、明治元年11月に8,153坪余の高田下屋敷は下賜されて、その大部分を開墾して桑・茶などを植えました。

じつは、これに先立つ安政6年2月22日に屋敷は類焼していて(『津山市史 第5巻-幕末維新-』)、施設の多くを失っていたようです。

しかしその後、明治3年9月に上地されてしまったので、この時に津山藩士桐淵道斎の名により1,000坪25両で払い下げを願い出たところ、11月に1,000坪20両の割合で金159両2分と銀7匁5分を東京府邸宅掛役所へ納めて桐淵が払い下げを受けています。(『津山市史』)

桐淵は確堂の側近ですので、実質的に津山松平家が下屋敷の土地を買い戻したことになります。

そして明治4年には、北に隣接する喜久井町に編入されました。(『東京都の地名』)

旧津山藩高田下屋敷(赤線の範囲)「喜久井町」『東京市及接続郡部地籍地図』東京市調査会、昭和12年 国立国会図書館デジタルコレクション 加筆】の画像。
旧津山藩高田下屋敷(赤線の範囲)「喜久井町」『東京市及接続郡部地籍地図』東京市調査会、昭和12年 国立国会図書館デジタルコレクション 加筆】

地籍図を見ると、大正元年に松平康民は、東京市牛込区喜久井町と北接する早稲田南町に合わせて6200.93坪という広大な土地を保有しています。(『東京市及接続郡部地籍台帳』東京市調査会、1912)

ただし、慶應4年(1868)には高田下邸8,153坪(『津山市史』)となっていますので、一回り小さくなっていますので、一部が譲渡されたのでしょう。

そして津山松平家が保有する土地は、一筆ずつが道路で区切られていること、所有者の松平康民の居住地が本郷区龍岡町となっていることから、借家として不動産を運用していたとみられます。

有島武郎(有島武郎旧居跡の碑より)の画像。
【有島武郎(有島武郎旧居跡の碑より)】

有島武郎旧居跡

だいぶ回り道をしましたが、ここで散歩に戻りましょう。

区立早稲田小学校横の丁字路から当たって左の旧坂を上って、崖上の平坦面に出てきました。

すると、まもなく夏目坂からのびる道に出てきました。

そこで、この道を東の市谷方面に20mほど歩くと、道の向こう側に大きな銀行の社宅に到着です。

その入口横に、有島武郎旧居跡の案内板が設置されているのが見えてました。

『生まれ出ずる悩み』で知られる明治の作家・有島武郎は、大正11年(1922)から一年間、この地で暮らしました。

翌年の大正12年(1923)は、「婦人公論」の女性記者・波多野秋子と軽井沢の別荘で心中し、若干45歳でなくなっています。

では、再び夏目坂を下って東京メトロ東西線早稲田駅に戻りましょう。

今回の散歩は、ちょっとコースから外れて近くにある新宿区立漱石山房と山鹿素行の墓に寄り道して約1時間30分、アップダウンの多いコースでした。

こうして実際に歩いてみると、津山藩高田下屋敷が三方を崖に囲まれた舌状にのびる微高地が丸ごと藩邸だったことが体感できたのではないでしょうか。

それでは、私が寄り道した漱石山房と山鹿素行の墓と、コース横の新宿区立早稲田小学校、さらに夏目漱石ゆかりの誓閑寺をご紹介したいと思います。

新宿区立漱石山房

明治の文豪・夏目漱石の住居、漱石山房があったのがこの場所。

この地で『三四郎』『それから』『こころ』などの数々の名作を執筆するとともに、鈴木三重吉、芥川龍之介、寺田寅彦、中勘助、内田百閒など多くの才能を育てています。

そして漱石は、大正5年(1916)に持病の胃潰瘍が悪化してこの地で没しました。

現在は、『吾輩は猫である』のモデルとなった「福猫」や文鳥など、夏目家の小動物たちの墓が残っています。

この被熱して剥離・赤変した石塔は、漱石山房を包んだ空襲のすさまじさを今に伝えています。

山鹿素行墓所の画像。
【山鹿素行墓所】

山鹿素行墓所

山鹿素行(1622~85)は江戸時代初期の儒学者・兵学者、甲州軍学を発展させた山鹿流兵学の礎を築きました。

朱子学を批判したことを幕府にとがめられて播磨赤穂藩へ配流、その折に大石内蔵助良雄らを門人としています。

この山鹿素行の墓所があるのが宗参寺、戦国時代にこの辺りを支配した牛込氏ゆかりの寺で天文13年(1544)創建です。

新宿区立早稲田小学校

明治33年(1900)開校の公立小学校で、現在の校舎は昭和3年(1928)に震災復興で建設された「復興小学校」です。(新宿区立早稲田小学校HP)

校舎は華やかな破風、重厚な入口のデザインなど、よそではちょっと見られない豪奢で重厚なつくりとなっていて、一見の価値ありの名建築。

現在も地元の子供たちが通う現役の小学校ですので、見学には注意しましょう。

誓閑寺の鐘の画像。
【誓閑寺の鐘】

誓閑寺

夏目坂の登り口に、南に枝分かれした小さな坂道を30mほど上ると、こじんまりしたお寺が見えてきました。

このお寺が漱石の『硝子戸の中』で「カンカンと鳴る」と記した鐘のある誓閑寺、その鐘は今も鐘楼に架かって現役、じつは新宿区内最古の梵鐘です。

この文章を作成するにあたって、以下の文献などを参考にしました。

また、文中では敬称を略させていただいております。

引用文献など

『東京市及接続郡部地籍台帳』東京市調査会(1912)

『牛込区史』東京市牛込区編(東京市牛込区、1930)

『津山市史 第5巻-幕末維新-』津山市史編さん委員会(津山市役所、1974)

『角川日本地名大辞典 13 東京都』「角川地名大辞典」編纂委員会(角川書店、1988)、

『江戸・東京 歴史の散歩道2 千代田区・新宿区・文教区』街と暮らし社編(街と暮らし社、2000)

『藩史大辞典 第6巻 中国四国編』木村礎・藤野保・村上直(雄山閣、2015)

新宿区立早稲田小学校HP

次回は、津山藩深川下屋敷を訪ねてみましょう。

トコトコ鳥蔵ではみなさんのご意見・ご感想をお待ちしております。

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