浄瑠璃坂の仇討ち・発端編【紀伊国新宮水野家(和歌山県)58】

前回は、浄瑠璃坂下にある日本福音ルーテル市ヶ谷教会についてみてきました。

そこで今回は浄瑠璃坂と、この場所で江戸時代に起こった大事件、浄瑠璃坂の仇討ちについてみてみましょう。

浄瑠璃坂

浄瑠璃坂下から先に進みましょう。

日本福音ルーテル市ヶ谷教会の建物に沿ってさらに北に向かうと、長い上り坂がみえてきました。

このゆるやかで長い坂が浄瑠璃坂です。

浄瑠璃坂、坂下からの画像。
【浄瑠璃坂、坂下から】
新宮水野家市谷浄瑠璃坂上・中屋敷付近(「市ヶ谷牛込會圖」〔部分〕戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永4年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【新宮水野家市谷浄瑠璃坂上・中屋敷付近「市ヶ谷牛込會圖」〔部分〕戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永4年)国立国会図書館デジタルコレクション 】

江戸切絵図をみると、坂の左手つまり西側は新宮水野家上屋敷の裏手にあたりますので、塀がつづいていたのでしょう。

いっぽうの坂の右手つまり東側には旗本屋敷が並んでいました。

よく見ると所々古い石垣名残っていますが、これはひな壇状に整地した名残なのかもしれません。

この浄瑠璃坂は、別名瑠璃寺坂とも言われます。

坂の名は、むかしこの坂の上で「あやつり浄瑠璃」の掛け小屋興行が行われていたことによるとする説があります。(『紫の一本』)

いっぽうでは、むかし光円寺という寺があって、その本尊・薬師如来が東宝浄瑠璃世界の主であることから、瑠璃寺坂とよばれたことにちなむ説(『再校 江戸砂子』)など諸説あって確定していません。

拝領中屋敷跡

坂を上ると、江戸切絵図によると左手つまり西側には「水野岩之丞」屋敷があります。

ここが新宮水野家市ヶ谷浄瑠璃坂拝領中屋敷1,020坪余と見てよいでしょう。

水野岩之丞は、新宮水野家一門の重臣で、九代当主忠央の弟・勝夫が養子に入っていました。

おそらく拝領中屋敷をそのまま屋敷として与えたのでしょう。

浄瑠璃坂から右に曲がってみると、道はぐるりと回って再び浄瑠璃坂上に戻ってきます。

その道に沿って建てられた住宅をよく見ると、どうやら高い崖となっているようです。

この崖が拝領中屋敷の西端となっているのがよくわかります。

崖をみたら、再び浄瑠璃坂上に戻りましょう。

浄瑠璃坂の仇討

水野岩之丞屋敷の北側には、三代家光のころには幕府の火消同心組屋敷がありました。

寛文12年(1670)のこと、この地で江戸時代を通じて最も大規模な敵討が行われます。

その舞台となったのが、浄瑠璃坂上の火消同心組屋敷の一つで、この事件を浄瑠璃坂の仇討とよばれました。

この事件は、仇討、仇討ち、討入り、敵討などの呼び名がありますが、今回は新宿区の表記に従って仇討で統一して表記することにします。

それでは、浄瑠璃坂の仇討についてみていきましょう。

発端

ことの発端は、寛文8年(1668)2月、宇都宮城主奥平忠昌の死去に際して、葬儀の場で家老の奥平隼人と奥平内蔵允とが口論となりました。

というのも、隼人が戒名を読み方が分からなかったのに対して、学問好きの内蔵允がすらすらと読んだことで、隼人が恥をかいたのです。

隼人は悔し紛れに内蔵助に悪態をついたうえに、日ごろのうっ憤を晴らすかのように罵詈雑言を浴びせました。

じつは隼人と内蔵允は母方の従兄弟、剣豪で知られた柳生但馬守も弟子で剣の腕が立つ隼人と、学問好きで知られる内蔵助はともに家老職にあったのです。

家老といえども隼人は藩主一門、いっぽうの内蔵允は家臣の家柄ですので、隼人に家格の違いを笠に着る一面もあったようです。

この場は亡き藩主の葬儀の場ですので、内蔵允がぐっとこらえて事なきを得ました。

源八、隼人に嫌がらせを受ける(『日本仇討物語』楠田敏郎(春江堂、1928)国立国会図書館デジタルコレクション 、本継目消す加工)の画像。
【代参の源八、隼人に嫌がらせを受ける『日本仇討物語』楠田敏郎(春江堂、1928)国立国会図書館デジタルコレクション 】

いさかい再燃

その後、3月2日の二十七回忌の折に、内蔵允は持病が悪化して起き上がれず、周知のうえ嫡男の源八を法要に代参させました。

ところが、前もって知らされていたにもかかわらず、隼人が内蔵允を大声でなじったといいます。

そこへ、病床から近親者に抱えられて内蔵允が駆けつけてしまったのです。

この内蔵助に隼人が罵詈雑言を浴びせかけたものですから、さあ大変。

堪忍袋の緒が切れた内蔵允は抜刀して隼人に切りつけましたが、かえって切りかえされて深手を負ってしまったのです。

隼人に斬りつけられる内蔵允(『日本仇討物語』楠田敏郎(春江堂、1928)国立国会図書館デジタルコレクション 本継ぎ目消す加工)の画像。
【隼人に斬りつけられる内蔵允(『日本仇討物語』楠田敏郎(春江堂、1928)国立国会図書館デジタルコレクション 本継ぎ目消す加工)】

騒ぎはここで老臣の兵藤玄蕃が仲裁に入り、それぞれが親類預けとなって、いったんは騒動が収まったかに見えました。

しかし内蔵允は隼人からさんざん辱めを受けたにもかかわらず、これを晴らすことができなかった無念の思い耐え難く、宿所で自害してしまったのです。

そしてこの騒動を収めるべく、新藩主は幕府に裁定を求めました。

下された裁定が、隼人たちは国許から追放処分、いっぽうの内蔵允側は、乱心であったとして幕府の指示により改易と著しく不平等なものだったのです。

喧嘩両成敗の原則に背く幕府の裁定は、内蔵允の側からみると、とても納得できるものではなかったのはいうまでもありません。

徳川家綱像(Wikipediaより20210830ダウンロード)の画像。
【徳川家綱像(Wikipediaより) 事件が起こったのは、四代将軍家綱の時代。幕府は大老・酒井雅樂頭忠清が実権を握っていました。】

ちなみに、5年前に禁止されたばかりにもかかわらず、忠昌死去による殉死があったことが原因で、奥平家は減封のうえ出羽国山形へと所替えとなったのでした。

ここまで奥平家でおこった奥平隼人と奥平内蔵允の騒動をみてきました。

はたして源八は父・内蔵允の無念を晴らすことができるでしょうか。

次回は仇討ちのゆくえをみてみましょう。

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