浅草に酉の市が来るまで 酉の市の歴史 その1

秋も深まる11月、神社の境内にぎっしり並ぶ露店、一面に縁起物の熊手に威勢の良い掛け声や手締め……、そんな浅草酉の市の賑わう風景をテレビでご覧になったことはありませんか?

飾りをいっぱいつけた大きな熊手を背負って帰る風景を見て、私にはあの熊手をどうするのか不思議に思えてなりません。

そこで今回は、酉の市の由来と歴史を調べるとともに、実際にお祭りに参加してきました。

長くなりますが、レポートをお届けします。

浅草 酉の市 目次その1:浅草に酉の市が来るまでその2:浅草酉の市が始まりました その3:浅草 酉の市とは?その4:酉の市参拝記①その5:酉の市参拝記② その6:酉の市参拝記③その7:酉の市参拝記④

浅草 鷲神社の酉の市の画像。
【浅草 鷲神社の酉の市。大変な賑わいです。写真提供:守山泰弘さん】

浅草酉の市とはどんな行事?

浅草酉の市は、旧暦の11月の酉の日を祭日として鷲(大鳥)神社で行われている祭りで、江戸を中心とする地域に分布している江戸の代表的な年中行事の一つです。

鷲神社は鳥蔵柳浅エリアからは北に約2㎞離れていますが、私たちの町のお店や会社にも鷲神社に縁起物の熊手を毎年買いに行くところを数多く見かけるのです。

ですので、浅草のみならず、東京の下町全体と縁のある行事となっています。

そこでまずは、知っているようで案外知らない酉の市の歴史について調べてみました。

「一陽来復 酉の市」(歌川豊国(丸甚、万延1年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「一陽来復 酉の市」歌川豊国(丸甚、万延1年)国立国会図書館デジタルコレクション】

江戸時代の酉の市

ちょっと意外ですが、榎本其角の句に「春をまつ ことのはじめや 酉の市」とあるように、酉の市は春を迎える正月最初の祭りとされていました。

またこの頃は「酉の祭り」【斎藤月岑『東都歳時記』天保9年(1838)】、「酉の町」【喜多川守貞『守貞漫稿』江戸後期】とも呼ばれていたのです。

現在でも11月の一の酉(最初の酉の日)が重んじられて、普通は二の酉までですが、年によって三の酉まであることもあります。

このような考えは江戸の頃から存在していて、江戸っ子は三の酉があることを異常と考えて、火事が多いとか吉原に変事が起こるなどと噂するのでした。

このような考えの本は、酉の市に「年占い」の意味があったことの名残と考えられています。

確かに「年占い」とは一年の吉凶を占う風習ですので、何度も行うのはあまり好いこととは思えません。

「鷲大明神祭図(花又鷲大明神の酉の市)」(『江戸名所図会 巻之六』天保7年(1836)) の画像
【「鷲大明神祭図(花又鷲大明神の酉の市)」『江戸名所図会 巻之六』天保7年(1836)
冊の中に鶏が放されています。】

酉の市の始まり

では、酉の市の起源はどういったものなのでしょうか?

さかのぼって江戸前期には、葛西花又村(現:足立区花畑町)で、鷲明神が武運長久の神として信仰されていました。

この武運長久の神様が、庶民の中で次第に商売繁盛や開運の神様として大いに人気を集めるようになります。

ですので、鷲明神にちなんで開かれる酉の市には、江戸からの道中が大いに賑わうほどの人出となって、まるで市場のようになったと伝えられています。

この時代の酉の市は農村のお祭りという色彩が強く、農具、古着、農産物、餅などが売られていました【大浄敬順『遊歴雑記』江戸後期】。

これらの商品の中からラッキーアイテムが出現し、重宝されるようになります。

熊手の笄(こうがい)と簪(かんざし)はこれをさせば強運に恵まれるといい、竹の大熊手と箒は悪事を払い福をかき集めるといい、抽笊は魔除けになる、などといったものです。

これらは縁起物として土産物となり、大いに人気を博すようになったのですが、どれも元々は市で売られていた商品だったわけです。

竹の大熊手はもちろん、箒や抽笊についても、現在まで宝船やお多福、千両箱などと共に飾りとして用いられています。

今回は江戸の郊外で酉の市が始まるところをみてきました。

次回はいよいよ浅草で酉の市がはじまるところをみてみましょう。

江戸東京博物館に飾られている高さ4mのジャンボ熊手 の画像
【江戸東京博物館に飾られている高さ4mのジャンボ熊手。】

【浅草 酉の市】その1:浅草に酉の市が来るまでその2:浅草酉の市が始まりました その3:浅草 酉の市とは?その4:酉の市参拝記①その5:酉の市参拝記② その6:酉の市参拝記③その7:酉の市参拝記④

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