橋梁としての浅草橋とは?  -その橋の魅力 浅草橋 その1

浅草橋に住む人は地元への強い愛情を持つ方が多いけれども、橋梁の浅草橋への愛着を語る方にお会いしたことがありません。

しかし私は気になって仕方ないので、今回は浅草橋について記します。

【目次】その1:橋梁としての浅草橋とは?・・・ その2:浅草橋の先代たち ・・・その3:浅草橋受難の歴史 ・・・ その4:現在の浅草橋に学ぶこと

神田川下流の柳橋から望む浅草橋の画像
【神田川下流の柳橋から望む浅草橋。 神田川の両岸に並ぶ船宿と屋形船は地域を象徴する景観です】

江戸建設時に、古くから浅草寺の門前町として栄えた浅草との通行を確保するために設けられたとする説が有力です。

天和6年(1620)に幕府が仙台藩に駿河台を開削して神田川を現在の流路に変更する普請を命じた際に本格的に整備されています。

神田川は江戸時代の外堀を兼ねていましたので、江戸城にあった三十六見附の一つ、北東方向・浅草方面への入り口として浅草見附の一部になっていました。

見附は桝形とよばれる防御区画をもつ城門で、番兵が通行人などを監視したところです。

江戸時代には火災や水害などで幾度も損壊し、その度に架け替えられました。

明暦の大火(俗称・振袖火事、明暦3年(1657))の折には城門を閉めた結果、避難民が行き場をなくし、多くの犠牲者を出した惨事も起こっています。

「浅草橋見附」(『江戸見附写真帖』1918 向陵社 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「浅草橋見附」(『江戸見附写真帖』1918 向陵社 国立国会図書館デジタルコレクション) 浅草見附の枡形に架かる木橋が浅草橋です。】

現在の浅草橋は、関東大震災からの復興事業の一環で、昭和2年10月に着工、同5年1月に竣工、工事期間は2年余でした。

一径間の鋼鉄製アーチ橋で、橋長35.8m、幅員33m。、下流側の柳橋や上流にある聖橋のような華麗な装飾や特徴ある構造は見られず、さっぱりした実用的な橋です。

次回からは、知っているようで案外知らない浅草橋の橋としての歴史とその魅力を探っていきましょう。

浅草橋から神田川の下流を見た風景の画像
【浅草橋から神田川の下流を見た風景です。鳥越神社の水上祭の折、たくさんの船が並んで往時の賑わいを思い起こさせてくれます。】

この文章をまとめるにあたって以下の文献を参考にしました。       『帝都復興區劃整理誌』1932東京市役所、『東京の橋 ー水辺の都市景観』伊東孝1986鹿島出版、『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』石川悌二1977新人物往来社、『東京の橋100選+100』紅林章夫 都政新報社

【目次】その1:橋梁としての浅草橋とは?・・・ その2:浅草橋の先代たち ・・・その3:浅草橋受難の歴史 ・・・ その4:現在の浅草橋に学ぶこと

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