熊野材【紀伊国新宮水野家(和歌山県)15】

前回は新宮の町についてみてきましたが、新宮の繁栄を支えたのが熊野川を使って山々から集められた熊野材でした。

そこで今回は、この熊野材についてみてみましょう。

熊野川と北山川の合流点付近、昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M659-A-119〔部分〕)の画像。
【熊野川と北山川の合流点付近、昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M659-A-119〔部分〕) 熊野は山また山の険しい地形、その中を熊野川が縫うように流れています。右側が下流で、新宮に向かって流れています。】

熊野材の保護

スギとヒノキを主とする熊野材は、古くから寺社や城郭の建材として用いられてきたので、かなり乱伐されていました。

このため、徳川頼宣が入封すると、山林保護の政策を確立していきます。

一例をあげると、頼宣入封直後の寛永13年(1636)に出した「奥熊野山林御定書幷に先年の壁書」をみると、留木・留山に関する条項がほとんどを占めているのです。

しかしそのいっぽうで、こうした保護政策は、藩有林の保護を重んじて私有林の保護を軽視する傾向を生むことになりました。

この傾向は、いしだいに様々な弊害を生みましたので、藩は保護政策を緩和する方向に進まざるを得なくなったのです。

すなわち、一定の制限を加えたうえで伐採させて、かわりに運上銀を収めさせることにルールを変更しました。

そして伐採と併せて、植林思想の普及や造林の奨励、空閑地の利用といった民業の育成に勤めることにしたのです。

とくに新宮水野家領では、櫨の木を植えさせて木蝋を採ることを奨励しました。

貯木場(『旅は紀州路』和歌山県知事官房統計課 編集・発行、1932 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【貯木場『旅は紀州路』和歌山県知事官房統計課 編集・発行、1932 国立国会図書館デジタルコレクション  見渡す限りの原木、右端には筏に筏師が乗っているのがみえます。】
貯木場入口(『新宮町郷土誌』和歌山県東牟婁郡教育会第一部会 編集・発行、1932 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【貯木場入口『新宮町郷土誌』和歌山県東牟婁郡教育会第一部会 編集・発行、1932 国立国会図書館デジタルコレクション  この写真から原木が筏のまま貯木場に置かれているのがわかります。】

熊野材の江戸進出

新宮と江戸との熊野材の取引は、慶安3年(1650)に新宮の問屋に対して江戸送り材が規制されることから、規制以前に取引が始まっていたことがわかります。

この背景には、新宮が大坂と江戸を結ぶ海路上にあるうえに、有力な廻船問屋があったこと、さらには紀州徳川家と江戸幕府が特別な関係があったことなどが見て取れるでしょう。

そしてもちろん、熊野に質・量ともに抜群な森林資源があったことが根本となっているのです。

またいっぽうで、江戸で人口が急増したことや、江戸でうち続いた火事によって、木材の需要が増大し続けたことも見逃せません。

「本所立川 富嶽三十六景」(葛飾北斎、メトロポリタン美術館蔵)の画像。
【「本所立川 富嶽三十六景」葛飾北斎、メトロポリタン美術館蔵 江戸の町には、建材や建築資材、包装や運搬など、大量の木材需要がありました。画面中央では製材も行っています。】

材木問屋

木材をあつかう問屋の出現は、はやくも元和年間(1615~24)と推定され、寛文4年には売問屋・清右衛門ほか20名の名が知られています。

これがさらに、延宝9年(1681)には25名にまで増えた問屋が、取引の定めを決めて連判しています。

江戸時代の後期、文政10年(1827)の「申渡書」をみると、「仲買座」が記されていることから、当時の流通機構が、山主―仕出人(本主)―問屋―仲買人というルートが出来上がっているのがわかります。

そして、ここにある問屋も仲買も世襲の株制度となっているのです。

文政2年(1819)には、卸売株が新たに設けられて、卸売をおこなう人数が限定されるとともに、年々相応の冥加金を領主に上納することと定められて、新規参入を許さない体制が出来上がりました。

新宮貯木場、昭和21年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M147-A-7-6〔部分〕)の画像。
【新宮貯木場、昭和21年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M147-A-7-6〔部分〕) 水面が材木で埋まった堀割が貯木場です。木材は熊野川にまであふれだしているのわかります。】

熊野川の役割

こうして木材の移出について安定した制度ができると、熊野川奥から筏に組まれて送られてきた膨大な量の材木は、熊野川河口に集積されることとなります。

そして、河川交通が発達すると、川原では日用品はじめいろいろな物が売られるようになったうえ、旅人宿までできて大いににぎわうこととなりました。

奧瀞峽での筏流し(『熊野史 小野翁遺稿』小野芳彦(和歌山県立新宮中学校同窓会、1934)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【奧瀞峽での筏流し『熊野史 小野翁遺稿』小野芳彦(和歌山県立新宮中学校同窓会、1934)国立国会図書館デジタルコレクション  画面中央、岩肌の間にわずかに見える北山川に筏と筏師の姿が見えます。険しい山々からも、流れ出る川を利用すれば木材を搬出することはさほど難しくなかったのです。】

こうして川原町が発展し、大いににぎわいを見せたことは前回にみたとおりです。

そこで次回は、新宮の繁栄を支えたもうひとつの産業、廻船についてみてみましょう。

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