前回は、結城秀康の越前移封からその子忠直が改易されて忠昌がその跡を継ぐまでをみてきました。
そこで今回は、勝山の領主が次々と変わった時期を経て、小笠原家が勝山に入封するまでをみてみましょう。
猫の目の勝山領
松平忠直改易のあと、福井藩領から離された勝山は、次々と領主が変わっていきました。
寛永元年(1624)に直基が勝山3万石を与えられて入封して勝山藩が誕生します。
さらに、寛永12年(1636)には大野5万石へと国替えとなって、入れ替わりに直良が大野郡木本から3万5,000石を与えられて勝山に入封しました。
しかし、正保元(1644)年には大野5万石へ転封となったのです。
秀康の子どもたち
このように勝山は目まぐるしく領主が変わる状況となりましたが、結城秀康の末裔たちも国替えを繰り返すことになったので、『徳川諸家系譜』から整理しておきましょう。
忠直の長男・光長の系譜は美作国津山に定着して津山松平家となる。
忠昌は越前に入り、越前松平家となる。
直正の系統は出雲国松江に定着して松江松平家となる。
直基の系統は転封を繰り返したのち幕末に上野国前橋に入り、前橋松平家となる。
直良の系統は、播磨国明石に定着して明石松平家となる。
紆余曲折あったとはいえ、どの家も幕末まで命脈を保っているあたりは、さすが名門といったところでしょうか。
勝山城の廃城
ところで、徳川家康が大坂の陣が終わった慶長20年(1615)6月13日に諸大名に対して居城以外のすべての城の破却を命じました。
これが世にいう「一国一城令」で、7月13日には年号が元和に改められますので、「元和偃武」とあわせて、ここから江戸の泰平がはじまったのをご存じの方も多いと思いのではないでしょうか。
このときは勝山は幕府直轄領でしたので、勝山城も廃城となり破棄されてしまいます。
このため、直基と直良が勝山に入封した時には、すでに勝山城は廃城となっていたのです。
いっぽうで、城下町は城が破棄されても発展を続けていました。
元和2年(1616)に「袋田町」が文献に現れるのをはじめとして、正保3年(1646)には「勝山町」の記載がみられます。
このことから、江戸時代の初めには勝山城地から通称「七里壁」の坂を下って九頭竜川沿いに袋田町・郡町・後町の三町が南北に連なる町の形ができていたのでしょう。
小笠原家入封
さて、先ほど見た直良が国替えとなって、勝山は幕府領となりますが、その後福井藩に預けられて「勝山御領分」と呼ばれます。
貞享3年(1686)福井藩が半知の処分を受ける際に、再び幕府直轄に戻されます。
そして元禄4年(1691)に美濃国高須から小笠原貞信が移されて以降は、小笠原家が勝山に定着したのです。
ここまで小笠原家が入封するまでの越前勝山についてみてきました。
次回は、勝山に来るまでの小笠原家の歴史をたどってみましょう。
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