前回は、内政のスペシャリスト・吉政がとった驚くべき施策をみてきました。
この吉政の急逝により吉政の跡を継いだ忠政は、うまく領国経営できるのでしょうか。
そこで今回は、柳川藩田中家二代忠政の時代をみてみましょう。
大坂の陣
慶長19年(1614)11月、徳川家と豊臣秀頼との対立が激化して、大坂冬の陣が起こると、忠政はこれに出陣しました。
ところが、忠政にとって思わぬことが起こります。
忠政の兄で吉政二男の康政が、藩主となれなかった不満から忠政と対立したのです。
元和元年(1615)5月夏の陣のときには、対立は激しさを増してきたため、ついに忠政が康政と親しい重臣の津留・宮川大炊らを討ち取って不穏を平定せざるを得ませんでした。
さらに、度重なる土木工事が原因となった財政難も加わって、十四~五日も出陣が遅延してしまいます。
忠政の大失態
そして、大坂到着時にはすでに大坂城は落城するという大失態を起こしてしまったのです。この機をとらえて康政は、忠政が大坂方と内通していた疑いがあるという訴状を幕府に提出したからたまりません。
忠政は、駿河に家康を尋ね謝罪するとともに、釈明のため江戸に上ることとなりました。
その結果、幕府からは7年間の江戸滞留を命じられて、江戸に留め置かれることになってしまします。
幕府からの信頼をすっかり失ってしまった忠政は、必死になって挽回に勤めたのはいうまでもありません。
元和2年(1616)4月17日、家康が薨去するや、忠政は領内山本郡善導寺境内に宰相精舎を建立し、家康を祀って徳川家への忠誠を示しました。
さらに、元和3年(1617)、兄で吉政長男の吉興に筑後のうち3万石を分封して味方につけたのです。
田中氏改易
さらに悪いことに、この件で気落ちしたのか忠政は病気にかかり、そのまま元和6年(1620)8月7日に江戸藩邸で死去してしまいます。
神田の吉祥寺に葬りましたが、のちこの寺は駒込に移り、さらに下剤は三鷹市吉祥寺に移っています。
こうして忠政の急逝後、世嗣断絶のため、領地没収となり、田中氏は改易されました。
こうして、元和6年(1620)幕府は島原城主松倉豊後守重政、豊後府内城竹中采女重義に柳川・久留米二城を監察させ、筑後国内の政令を司らせます。
そして、筑後に所領のあった田中吉興を、近江国に2万石を与えて移封したのです。
この家が分封や減封があるものの、旗本として徳川家に仕えて幕末まで続いています。
キリシタン大名吉政・忠政
ここでもし、吉政と忠政が長生きしていたら、田中家の改易はなかったのかを考えてみましょう。
じつは、吉政は、バルトロメオの洗礼名を持つキリシタン大名でした。
そのため、キリスト教にも深い理解を示すとともに、布教にも協力しています。
慶長12年(1607)、柳川を訪れた神父バエスを大いに歓待して銀20枚を賜い、また、天主堂の聖像に1万2,000のデンエを寄進しました。
しかしいっぽうでは、幕府は慶長17年(1612)に直轄地で禁教令を発したのを手はじめに、禁教を全国に広げようとしていました。
こうした中でも、吉政の跡を継いだ忠政もキリスト教を保護する姿勢を変えていません。
元和2年(1616)にいたっても、忠政はキリシタンを称賛して信者を保護し、そのうえ家老の一人がキリシタンを迫害したとして死刑に処したといわれています。
これが事実とすれば、幕府の禁教令に抵触するのは間違いありません。
この後、寛永14年(1637)には、柳川と有明海をはさんで向かい会う天草と島原で、大規模なキリシタン一揆・島原の乱が起こるのは皆さんもご存じのところ。
もしも柳川で田中氏の支配が続いていたなら、柳川のキリシタンが大きな火種となっていたのかもしれません。
今回は田中家が改易されて柳川藩が取り潰されるまでをみてきました。
そこで次回は、田中家が柳川に残した大きな遺産をみてみましょう。
コメントを残す