田山花袋に学ぶスランプとのつき合い方

5月13日は、昭和5年(1930)に作家の田山花袋が亡くなった日です。

花袋といえば、代表作『蒲団』で知られる自然派文学の中心人物として教科書にも載っている人物ですが、いっぽうでは大スランプがあった人としても知られています。

そこで、花袋の生涯を振り返りながら、彼の意外な一面とスランプとの付き合い方を探ってみましょう。

alt=”明治41年の田山花袋”>
【田山花袋(明治41年)(『花袋全集』十五巻、田山花袋(花袋全集刊行会、1937)国立国会図書館デジタルコレクション )より)】

幼少期

花袋は、明治4年(1871)12月13日、栃木県邑楽郡舘林町千四百六十二番屋敷、現在の群馬県館林市尾曳町において父・田山鋿十郎、母・てつの間に、六人兄弟の第五子、二男として生まれました。

花袋の家は代々舘林藩の藩士の家柄でしたが、明治維新後に父が警視庁巡査となったため、明治9年(1876)に一家で上京します。

ところが、翌年の西南戦争で父が戦死し、一家は舘林の祖父母の家に戻りました。

その後、11歳で足利の薬問屋、ついで東京・京橋の書店に小僧に出されたものの、翌年舘林に戻ります。

13歳で旧藩の漢学塾で学ぶと、作品を『穎才新誌』に投稿するようになり、ついに文学を志すようになりました。

alt=”柳田国男”>
【柳田国男(出典:近代日本人の肖像)】

上京

明治19年(1886)に再び上京すると、明治22年(1889)松浦辰男に入門して桂園派和歌を学び、ここで松岡(柳田)国男と知り合います。

日本法律学校、現在の日本大学に入るものの中退すると、明治24年(1891)尾崎紅葉の弟子となり、作家を目指しました。

明治29年(1896)には島崎藤村と国木田独歩と知り合い、明治30年(1897)には柳田国男と独歩らと合同詩集『抒情詩』を刊行します。

alt=”島崎藤村”>
【若菜集時代の島崎藤村(『藤村全集-第2巻』島崎藤村(藤村全集刊行会、大正11年)国立国会図書館デジタルコレクション)より)】

明治32年(1899)2月に詩人太田玉茗の妹・伊藤リサと結婚、9月には博文館に入社して週刊『太平洋』編集に携わると、このころから写実主義的な作品を発表するようになりました。

明治37年(1904)には日露戦争に博文館私設写真班の主任として従軍し、過酷な戦場で人間の生死を見詰める体験をします。

自然主義文学

明治39年(1906)3月、博文館から「文学世界」が創刊されると、その主事に就任、文学サロン龍土会やイプセン研究会の有力メンバーとして活動し、自然主義文学運動で中心的役割を果たすことになりました。

そうした中、明治40年(1907)『蒲団』を発表すると、文壇に地位を確立します。

しかし、明治42年(1909)『田舎教師』を発表した後は、次第に行き詰まりをみせました。

alt=”書をする田山花袋”>
【書をする田山花袋(『花袋全集』九巻、田山花袋(花袋全集刊行会、1937)国立国会図書館デジタルコレクション )より)】
alt=”田山花袋”>
【田山花袋(出典:近代日本人の肖像)】

花袋の大スランプ

白樺派をはじめとする若い文学世代が急速に台頭して、意外にも自然主義はあっという間に退潮を迎えてしまいます。

そのうえ、花袋自身が体験を晒しすぎたことでネタ切れ状態に陥って行き詰り、大スランプがはじまりました。

心機一転を図って明治45年(1912)博文館を退社、環境を変えようと日光に移ってもだめでした。

ここで花袋が頼ったのがフランスの唯美主義・神秘主義作家のユイスマンスと仏教です。

東洋的な諦観を全面的に押し出すことで、ようやく大スランプを抜け出しました。

alt=”田山花袋と近松秋江・中村武羅夫”>
【花袋、近松秋江、中村武羅夫(大正13年5月宇野浩二撮影)(『花袋全集』十四巻、田山花袋(花袋全集刊行会、1937)国立国会図書館デジタルコレクション )より)】

『時は過ぎゆく』(1916)、『一兵卒の銃殺』(1917)、『残雪』(1918)の佳作を発表し、新境地を開きます。

この時は、花袋が大成功した時のプライドや自然主義という手法で自縄自縛に陥っていたのでしょう。

あるいは、幼いころから漢詩などの東洋文化に深く親しんできた花袋にとって、じつは西洋的な科学的な人間観や世界観は合っていなかったのかもしれません。

再びのスランプ

花袋は大正9年(1920)に徳田秋声とともに文壇をあげて生誕50年を祝われると、旺盛な創作活動を続けました。

ところが、これ以降は評価を得ることができなくなって、再びスランプに陥ってしまいます。

歴史文学に活路を求めるもののうまくいかず、次第に文壇でも孤立して孤独にさいなまれるようになったのです。

これにより、事実上の第一線からの引退となってしまいました。

alt=”田山花袋”>
【田山花袋(出典:近代日本人の肖像)】

晩年

こうした中、明治41年(1908)ころから関係を続けてきた芸妓飯田代子を花柳界から身を引かせると、彼女との長い関係を振り返った『百夜』(1935)を発表しました。

いわば原点回帰となったこの作品が、藤村や政宗白鳥などから好評を得て、作家生活の最後を飾る代表作となりました。

昭和3年(1928)末からは軽い脳溢血に倒れ、翌昭和4年(1929)春には喉頭癌に。

それでも最後まで病床で仕事を続けていましたが、ついに昭和5年(1930)5月13日、東京代々木の自宅で亡くなりました。享年60。

alt=”芥川龍之介”>
【芥川龍之介(出典:近代日本人の肖像)】

芥川龍之介の花袋評

芥川龍之介は花袋について、「紀行文を描いてゐる時の氏は、自由で、快活で、正直で、如何にも青い艸を得た驢馬のやうに、純真無垢な所があった」(『あの頃の自分の事』)と紀行文にこそその真骨頂があったと称賛しています。

じつは私も、大スランプから抜け出したときに自身の歩みを振り返った『東京の三十年』(1917)が大好きで、この本と荷風『日和下駄』を手に、今も東京の町を歩いています。

花袋の人生をみたとき、スランプから抜け出そうき苦しんでもなかなか抜け出せるものではなく、時が来ればチャンスが巡ってくることがわかるでしょう。

そしてなにより、スランプから抜け出した時、苦しんだ時間や経験が、自分のかけがえのない財産となっているのです。

alt=”田山花袋の紀行文”>
【田山花袋の紀行文(一部) 中でも、『東京の三十年』が大好きです。】

(この文章では、敬称を略させていただきました。また、『花袋全集』田山花袋(花袋全集刊行会、1937)、『日本近代文学史大事典』『日本児童文学大事典』『国史大辞典』を参考に執筆しています。)

きのう(5月12日

明日(5月14日

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です