前回は「岩槻屋 星野」〔東京都浅草橋4‐20‐9〕のこだわりについてみてきました。
今回は視点を変えて、「岩槻屋 星野」に残る豆菓子とこの町のかかわりについて見てみましょう。
【目次】その1 岩槻屋星野さんとは? その2 熟練の技と深いこだわり その3この町を支えた豆菓子屋さん
町と豆菓子屋のステキな関係
かつて職人が多く住んでいたこの地域には、町々に豆菓子屋やせんべい屋があり、腕を競っていました。
船頭などの体を使う職人にはミネラル補給、手先や頭を使う職人には糖分補給、もちろん子供たちのおやつと、単なる間食というだけでなく、職人たちの仕事に欠かせないものでした。
町々の豆菓子屋・せんべい屋は、地元の職人たちを支える大切な役割を果たしてきたのです。
また、花柳界で賑わっていた柳橋では、ちょっとしたお茶請けや酒の肴などに 豆菓子が重宝したのです。
ですので、豆菓子屋が花柳界の繁栄を支えた側面もあったのです。
ちょっと横道にそれますが、島崎藤村が浅草新片町(現在の東京台東区柳橋1丁目)に住んでいた二階建ての瀟洒な家の大家さんは、浅草茅町一丁目にある豆菓子(種菓子)屋でした。
豆菓子屋の危機
しかし、地域から職人たちの姿が減り、スーパーが進出すると、多くの豆菓子屋・せんべい屋がなくなっていきました。
そんな中でも岩槻屋 星野さんは、昔ながらの製法を守り続けて来られました。
このお店は、職人の町・浅草橋の記憶を留める貴重な存在なのです。
あなたも「岩槻屋 星野」さんで、本物の豆菓子を味わってみませんか?
この町には素晴らしいものを作る方、最上の技術を持つ方が多くいらっしゃいます。例えば、和菓子や畳、団扇や茶筒、革製品、革靴、クルミボタン、シャツ、写真、日本刀研磨などなどです。鳥蔵柳浅では、町の匠たちを応援しています。
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