前回みたように、二本松への脅威がなくなると、新政府軍は会津藩を直接攻撃できるところまで進撃してきました。
そこで今回は、会津城攻防戦への道のりをみてみましょう。
戦略の決定
二本松城を落としたことで、新政府軍大総督府参謀の大村益次郎は、仙台藩と米沢藩を攻略して同盟軍を壊滅させたのちに会津侵攻を行う方針を建てていました。
いっぽう、二本松に進んだ前線を指揮する伊地知正治と板垣退助の両参謀は、まず会津侵攻を強く主張、結局これが方針に決まったのです。
その理由は、この時点で会津藩は国境の各所に兵を出しているため、会津藩内の守備が手薄なこと、降雪によって新政府軍が不利になることを避ける目的があったといいます。
こうして会津侵攻の方針が決まると、その経路をめぐって今度は板垣と伊地知が対立、最終的に伊地知の推す母成峠からに決したのです。
母成峠の戦い
いっぽうの会津藩は、中山峠に防御の中心を置き、母成峠には大鳥圭介率いる旧幕府軍伝習隊を中心とする少数部隊を置くのみでした。
しかし大鳥はこのルートからの侵入を予期しており、伊達政宗のころに築かれた防塁を修繕して防御を固めて、新政府軍を迎え撃ちます。
8月21日の朝から新政府軍の攻撃が始まると、伝習隊の奮闘でこれを防ぎました。
しかし、時間がたつにつれて、兵力と火力で圧倒的な物量差から、伝習隊は次第に追い詰められ、ついには壊走してしまったのです。
猪苗代十六橋攻防戦
こうしてわずか一日で国境を突破した新政府軍は、怒涛の勢いで猪苗代城に進撃を開始します。
これを見た猪苗代城城代の高橋権太夫は城に火を放って若松城まで撤退し、翌22日には猪苗代はあっさりと新政府軍の手に落ちたのです。
一方の会津藩は、猛将佐川官兵衛率いる隊が、猪苗代湖から流れ出る唯一の河川・日橋川にかかる十六橋を落として新政府軍の進行を食い止めようと試みました。
ところが、折から台風による豪雨もあって作業はなかなか進みません。
そんな中、早くも川村純義率いる薩摩藩隊が電撃的な進攻で、22日夕刻に橋に到着、すぐさま佐川隊に攻撃を仕掛けたのです。
さらに戦闘中には新政府軍の本隊が到着、ここで佐川は橋の破壊をあきらめて後退せざるを得ませんでした。
すぐさま新政府軍は橋を復旧すると、全軍がこれを渡って進撃し、夜には戸ノ口まで進撃したのです。
戸ノ口原の戦い
一方、十六橋から撤退した佐川は、戸ノ口・強清水・大野ヶ原に陣をはって新政府軍を迎え撃ちます。
さらに、新政府軍来攻の一報を聞いた前藩主・松平容保は、自身の護衛や城内守備にあたっていた白虎隊など予備兵力をかき集めて出陣、滝沢村まで進みました。
ところが、戸ノ口原の戦いで会津藩は敗退、容保も城内に引き揚げざるを得なかったのです。
勝利でさらに勢いに乗った新政府軍は進撃を続けて、23日午前10時頃に会津城下に突入します。
こうしてわずか1日で、新政府軍の会津城下侵入を許した会津藩は大混乱に陥りました。
白虎隊の悲劇
ここで改めて会津藩白虎隊についてみてみましょう。
会津藩は兵を年齢別に編成していて、15~17歳を白虎隊、18~35歳を朱雀隊、36~49歳までを青竜隊、50~56歳を玄武隊、さらに14歳以下の少年隊に区分していました。
これをさらに身分で士中・寄合・足軽に分けてさらに数字を付して部隊名としています。
主力は朱雀隊、国境警備は青竜隊、護衛や城内守備は白虎隊、玄武隊は予備役を任務とし、先に見た松平容保の親衛隊は白虎隊士中一番隊があたっていました。
そして戸ノ口原の戦いに参加した白虎隊士中二番隊は壊滅的被害を受けて撤退し、ようやく飯盛山まで退却しました。
ここで生き残った20名とも7名ともいわれる隊士は、もはや城に帰還する力が残っていないことから、敵陣に切り込んで討ち死にするか自刃するかを議論したといいます。
結果として負傷者が多いことから「生きて辱めを受けず」と自刃の道を選び、広く知られる悲劇となりました。
そして悲劇は白虎隊にとどまっていません。
籠城の足手まといになると西郷頼母の妻女が自刃したのをはじめ、籠城戦を前に数々の悲劇が起こったのです。
若松城攻防戦開始
いっぽうで、新政府軍参謀の板垣は、会津藩の決死の抵抗をみて、無理をして若松城を攻める場合に多大な犠牲が出ることを憂いました。
また、現有兵力では若松城を完全に包囲することは困難と考えて、会津城を砲撃しながら西の越後方面や南の日光方面から進撃してくる友軍を待つ方針を立てます。
そしてここから、1ヶ月に及ぶ会津城攻防戦がはじまったのです。
さらに板垣は、柳川藩をはじめとする二本松城守備部隊を若松城下へと呼び寄せます。
じつはこのころまでに仙台藩が戦意を喪失していたうえに、増援部隊が次々と到着して、もはや二本松襲撃の危険がなくなっていました。
板垣の願い
こうして始まった会津城包囲戦ですが、土佐藩一小隊を率いて参陣していた谷干城は、この時に力攻めしていれば、若松城は陥落したのではないかと回顧しています。
そして伊地知も、すぐに会津城へ総攻撃をかけるよう主張していました。
しかし板垣は長期包囲戦の主張を変えることはありませんでした。
友軍を待つというのはもちろんですが、同時にもはや大勢が決したこの戦争で、犠牲者を少しでも減らすことを考えあわせての戦術だったのです。
ですから、最終的に会津藩の降伏によって戦いを終わらせる決意を固めていた板垣は、ひょっとすると戦後の新しい国作りまでも見据えていたのかもしれません。
いっぽう、ここで目を転じると、柳川藩兵は他の戦線でも活躍を見せていました。
そこで次回は、柳川藩兵による咸臨丸拿捕からみてみましょう。
《鳥羽伏見の戦いから若松城攻防戦までの記事は、文中に挙げた『太政官日誌』とともに、『戊辰戦争』『戊辰戦争全史』をもとに執筆しました。》
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