お正月、家族で百人一首カルタを楽しんだ経験がある方も多いのではないでしょうか?
ですが、「百人一首カルタが、日本の教養を作り上げてきた」と聞いてもみなさんピンとこないに違いありません。
そこで今回は、百人一首カルタの歴史的役割について、その歴史をたどりながら見ていきたいと思います。
【百人一首大会 目次】①百人一首カルタの歴史 / ②百人一首カルタの遊び方 / ③浅草中学の百人一首大会
16世紀後半に、ポルトガル船がもたらしたヨーロッパのカルタに影響されて、江戸時代の日本では花札や「百人一首」などの歌かるた、「いろは」カルタなど様々なカード遊びが生み出され発達しました。
そして江戸時代の日本は、世界一のカルタの王国にまでなったのです。
まず「百人一首」をはじめとする「歌かるた」の起源をみてみましょう。
黒川道祐『雍州府志』(貞享元年(1684))には「元貝合之戯自リ出ズ者也」、また伊勢貞丈『貞丈雑記』(天保14(1843))には「歌かるたという物は古なし 近代出来たる者也 本は貝おほひの貝より思ひよりて作りたる故 本名を歌貝と云う也」とあります。
このことから伝統的遊戯の「貝覆」の貝を紙に変えたのが「歌かるた」であり、その代表が「百人一首」なのです。
松浦静山『甲子夜話』(文政5年(1822))に「百人一首歌留多ノ白木箱ニ納メシヲ」とあることから、江戸時代後期には現代のものとほぼ同じ「百人一首」カルタが出来ていたことがうかがえます。
ではカルタの題材となった「百人一首」とは何でしょうか。
これは藤原定家が策定した「小倉山荘色紙和歌」や「嵯峨山荘色紙形」と呼ばれた嵯峨・小倉山荘の障子に貼られたものが原型です。
百人の歌人から一首づつ集めたものなので「百人一首」とよばれます。
のちに「新百人一首」や「武家百人一首」などが成立したので、これらと区別するために「小倉百人一首」と呼ばれるようになりました。
定家の歌論にそって妖艶な歌風が重んじられ、流麗な歌調のものが多く選ばれています。
さらに定家晩年の好みにより、口ずさみやすく覚えやすい歌が多いことから 広く愛唱されるようになりましたので、カルタには格好の題材となったのです。
「百人一首」カルタの流行を違った面から見てみましょう。
『女用教訓・絵本花の宴』(作者・製作年不明)には、「百人一首ほど、小町花合 三十六歌仙 そのたびたび数々つねにもてあそびてそらんじぬべし」とあるように、女子の教養のための古歌を覚える方法ともなって、上流階級での遊びであるとともに学習の手立てとなります。
このように、百人一首カルタは17世紀前半に上流の武家社会で女性が楽しんでいた遊戯を基礎にして京都で考案され、元禄年間以降に雅な遊戯として全国に広く普及していきます。
この遊びに加わる中で、人は王朝時代にまでさかのぼる文化とは何かを学ぶことになりました。
加えて江戸時代の教育では、先生が「百人一首」に詠まれている和歌を朗詠して聞かせてみたり、書いてみせて習字の手本にしたりしています。
古典落語の「千早振る」、「崇徳院」などを見ると、文字が読めない人でも内容を理解していたことからが分かります。
また、読み札に描かれた天皇、皇族、公卿、歌人たちの絵姿を見れば、自分がどういう文化伝統の社会に生まれて育ったのかがビジュアルでもたやすく理解できました。
こうして、「百人一首」は標準語もテレビやラジオもない時代に、文芸作品を通じて言語や文化を全国民が共有する重要な役割を果たしました。
明治時代になって政府が道徳教育の手段として「いろは」カルタを重視したこともあって、百人一首カルタの流行には一時期陰りが出た時期もあります。
しかし、明治30年代に黒岩涙香が提唱して競技カルタが始まると再び人気を集めるようになり、今日までたくさんの人に楽しまれています。
こうしてみてみると、百人一首カルタが、日本の教養を作り上げてきたと言っても過言ではないでしょう。
言い換えるならば、百人一首カルタが愛好される限り、日本の伝統的教養は次世代へと受け継がれていくに違いありません。
この文章を作成するにあたって以下の文献を参考にしました。(順不同敬称略)
国史大辞典編集委員会『国史大辞典 2』1980 吉川弘文館、㈶日本レクリエーション協会監修・増田靖弘編『遊びの大辞典』1989東京書籍、神崎宣武・白幡洋三郎・井上章一編『日本文化事典』2015丸善出版
【百人一首大会 目次】①百人一首カルタの歴史 / ②百人一首カルタの遊び方 / ③浅草中学の百人一首大会
コメントを残す