《最寄駅:JR総武線・都営地下鉄浅草線 浅草橋駅、東京メトロ新宿線 岩本町駅、JR山手線・京浜東北線・総武線・東京メトロ日比谷線・つくばエクスプレス 秋葉原駅》
江戸時代も終わりに近い嘉永年間、常陸国谷田部藩(下野国茂木藩)には神田・柳原元誓願寺前に4,433坪余の上屋敷、本所菊川町に300坪と本所南割下水に1,100坪の二か所の拝領下屋敷がありました。
そこで今回は、神田・柳原元誓願寺前の上屋敷跡を歩いてみましょう。
なお、先に第5回「細川子爵家誕生」で見たとおり、明治4年2月の茂木藩への名称変更から同年7月の廃藩置県までの5か月間でしたが、谷田部藩時代と同じ江戸屋敷が使用されていたことから、常陸国谷田部藩に下野国茂木藩の名称を付け加えて表記します。
(グーグルマップは常陸国谷田部藩(下野国茂木藩)には神田・柳原元誓願寺前上屋敷の跡地の一角、大和橋跡を示しています。)
浅草橋
スタート地点は都営浅草線とJR総武線の浅草橋駅、JRは東口、地下鉄の場合はA3出口から国道6号線江戸通りに出て、南を目指していきます。
浅草橋は人形の老舗とビーズショップが並ぶ街、江戸最古の人形店・吉徳大光やビーズショップの前を通って100mほど行くと、神田川が見えてきました。
神田川にかかるのが浅草橋、これを越えると江戸御府内で、ここには巨大な城門の浅草見附が設けられていました。
現在、神田川には美倉橋や和泉橋、昌平橋や聖橋といった関東大震災からの復興事業で架けられた美しいアーチ橋が続いていますが、そのうちの一つがこの浅草橋です。(『東京の橋―水辺の都市環境』)
橋を渡った公園にも碑が見えますが、こちらは「郡代屋敷跡」を示すもの。
郡代屋敷とは、関東の幕府直轄地を治めた代官・関東郡代の役宅で、寛政4年(1792)まで代官頭を務めた伊奈家が屋敷を構えていたのです。(『歴史の散歩道』)
柳原土手の痕跡
浅草橋交番の前を西に曲がって東に向かい、開智日本橋学園西側の横断歩道を渡ったところに、少し窪んだところがあるのに気づかれるでしょうか?
このわずかな窪み、じつはかつて神田川南岸にあった柳原土手の名残、正確には土手に沿って掘られた溝渠の痕跡とみられる段差で、今歩いてきた道と神田川の間にある細長い街区とが、かつて堤防だったのです。
江戸時代、江戸御府内を守るために、この辺りの神田川の南岸には高い土手、北岸にはそれより1mほども低い土手を造っておいて、もしもの時は北側だけが洪水になるように工夫していました。
柳原橋跡
再び柳原の土手跡を神田川に沿って西に向かいましょう。
右手を流れる神田川橋に左衛門橋、美倉橋と越えて、さらに西へ150mほど行くと、一部分だけ歩道が広がっている部分があるのに気づくのではないしょうか。
よくみると、縁石がこれまでのコンクリートではなく石でできているのです。
これが柳原橋の縁石で、かつて浜町川に架かっていた橋が、なんとそのまま埋まっているのです。
柳原橋の縁石 かつての浜町川堤防 和泉橋から見た浜町川跡の水門と美倉橋
浜町川の痕跡
柳原橋縁石を越えて、南にのびる路地に入ってみましょう。
この道、周囲より少し低くなっているのですが、その橋をみるとコンクリート製の擁壁が顔を出しているのに気づきました。
これはかつての浜町川の堤防、橋だけでなく堤防もそのまま埋まっているのですね。
柳原通まで戻って、今度は北側をみると、かつての川の部分だけがコンクリート敷になっているのが目につきます。
浜町川は、今も暗渠となって残っていて、ちょっと遠いですが和泉橋の上から排水口を見ることができるので、後でちょっと覗いてみてください。
大和橋跡に残る浜町川の痕跡 大和橋交差点にそのまま埋められた大和橋の痕跡
大和橋跡
柳原橋跡を南に曲がって100mほど行くと、広い通りに出てきました。
この道は靖国通り、ここに南西から平成神田通りが合流して三角形の交差点を作っています。
この交差点が「大和橋交差点」、その名の通り、ここにも大和橋がそのまま埋まっているのです。
かるく弧を描く歩道を西に向かって旧大和橋を渡ると、小さな公園がありますので、ここで休憩しながら常陸国谷田部藩(下野国茂木藩)の神田柳原元誓願寺前上屋敷についてみてみることにしましょう。
谷田部藩(茂木藩)神田柳原・元誓願寺上屋敷
最初に見たように、谷田部藩(茂木藩)の上屋敷があったのは神田・柳原元誓願寺前、現在の千代田区岩本町3丁目の東端部に当たります。
俗に元誓願寺前と呼ばれたのは、現在は府中市紅葉丘にある浄土宗京都知恩院の末寺・誓願寺があったから。
この誓願寺は、天正18年(1590)に小田原で開基、文禄元年(1592)に谷田部藩上屋敷近くの神田白銀町に移転してきましたが、ほどなく浅草田島町に移転したことから、この付近を元誓願寺前と呼びならわしていたのです。
ちなみに、誓願寺はその後関東大震災で焼失し、府中市の現在地に移転しました。
そしてこの地を谷田部藩が立藩した元和2年(1616)ごろに初代藩主細川興元が拝領し、江戸屋敷を構えたのです。
この上屋敷で元和5年に興元が死去したのは別稿でみたところです。(「細川玄蕃頭登場」参照)
それ以来、明治4年(1871)の明治廃藩置県に至るまでの約250年間、谷田部藩上屋敷の位置が変わることがありませんでした。
江戸時代初めはこの辺りに大名屋敷が並んでいましたが、神田が繁華になったこともあって大名屋敷は郊外に移転して少なくなっていきます。
江戸の華・火事の脅威
おそらく移転した大きな要因の一つが火事、「火事と喧嘩は江戸の華」とも謳われたところですが、神田の地は江戸でも最も火事の多い場所の一つだったのです。
江戸藩邸の土地こそ将軍からの拝領ですが、屋敷を整備し建物を建てる費用は藩が出すのですから、大変手痛い出費なのは間違いありません。
じっさい、谷田部藩上屋敷が焼失したのは、安永元年(1772)、天明6年(1786)、文化3年(1806)、文政元年(1818)、文政12年(1829)、天保5年(1834)と頻発していますので(『藩史大事典』)、藩財政悪化の大きな一因となったのは前にみたところです。(「細川玄蕃頭登場」参照)
このように藩財政を傾けてまでこの屋敷にこだわったのは、大名が自己の所領に関して「領地には由緒があって、罪なくして所替されないという観念」があった(『天保の改革』)ように、藩租以来の屋敷地を自分たちの領地のように思っていたからなのでしょう。
谷田部藩(茂木藩)上屋敷、その後
そして明治4年に廃藩置県が断行されると、茂木(谷田部)藩上屋敷は上げ地されてしまいました。
その後、翌明治5年(1869)には屋敷周辺の竜閑町代地と神田横大工町代地などからなる東龍閑町に編入されて町地となっています。
明治五年の戸数280、人口1,193、物産に髢(かもじ)とガラス細工があり(『府志料』)、また南の大和町にかけてその数400軒ともいう駄菓子屋が軒を連ねて大いににぎわっていました。(東神田町会説明板)
浜町川開鑿
その後、明治16年(1883)になると、日本橋川からのびる龍閑川と三叉からのびる浜町川が岩本町付近で合流していたものを北に延伸されて、東龍閑町の東端部が川の用地となりました。
そして東龍閑町には二つの橋、浜町川が神田川から分かれてすぐの川口に柳原橋と、町の南を区切る道を渡す大和橋が架けられています。
柳原土手
いっぽう、谷田部藩上屋敷のあった神田柳原元誓願寺という場所は、神田川南岸に整備された堤防が続くことから、「柳原土手」と呼ばれた場所の一角を占めています。
この柳原土手は、寛政6年(1794)に火除地とされて人家が取り払われて明(あき)地となると、葭簀張の古着屋や古道具屋が軒を連ねるようになったのです。
その後、明治6年(1873)には柳原の土手が崩されて町地となり、柳原通りが整備されると江戸時代以来の伝統を引き継いだ古着屋が集積して、明治18年(1881)には岩本町三丁目から神田岩本町にかけての一帯に400軒以上の古着屋が軒を連ねる「岩本町古着市場」が誕生します。(「既製服問屋発祥の地」説明板による)
関東大震災
しかし大正12年(1923)関東大震災では地域は壊滅的被害を受けてしまいます。
東龍閑町の駄菓子屋たちは復興計画で錦糸町へ移転となったうえに、東京を東西に貫く大通りの靖国通りが街の南側に通ることとなりました。
それでも、西隣の「岩本古着市場」は早期に回復、古着のみならず繊維業の一大集積地へと発展していきます。
一方で東龍閑町界隈は大和橋と柳原橋が架け替えられたほか、繊維や運送関連の会社や住宅が混在する地域となっていきました。
戦災復興
そして震災復興から間もない昭和20年(1945)3月には、東京大空襲で再び町は壊滅してしまいます。
そして戦災がれきの処理のために昭和24年(1949)から浜町川は埋め立てられて姿を消してしまいますが、上流から埋め立てる方針によって橋の撤去が間に合わなかったことから、柳原橋と大和橋はそのまま埋められることになったのです。(『中央区沿革図集[日本橋篇]』『図説 江戸・東京の川と水辺の辞典』)
和泉橋
それでは散歩を再開しましょう。
公園を出て、そのまま北へ向かいます。
柳原通までのこの道が、まさにかつての谷田部(茂木)藩下屋敷ですが、その痕跡は残念ながら残っていません。
このまま柳原通りを西に向かうと、100mほどで和泉橋に到着しました。
現在の和泉橋は飾りっ気のない橋ですが、この橋も復興橋で、道の下には美しい上路式アーチ橋があるのです。
和泉橋の反対を向いて南に向かうとすぐに、東京メトロ新宿線岩本町駅A4出口です。
和泉橋 せんべいの老舗・柏屋
和泉橋を渡ってすぐに、東京メトロ日比谷線秋葉原駅8番出口に到着します。
また付近には老舗せんべい屋の柏屋など、昭和の風景が僅かに残っていました。
JR総武線昭和橋架道橋下の横断歩道で国道4号昭和通りを渡ると、ここからは秋葉原の街です。
すぐ前にはJR秋葉原駅昭和通り口、その横にはつくばエクスプレス秋葉原駅昭和通り口も見えてきました。
今回はおよそ1.6㎞、1時間の平坦なコース、藩邸関連の遺構はありませんでしたが、関連する碑が多くあったほか、関東大震災からの復興に関連する遺構に多く出会うことが出来ました。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。
また、文中では敬称を略させていただいております。
引用文献:
「府内備考 巻十三」『大日本地誌大系 壹』大日本地誌大系刊行会編(大日本地誌大系刊行会、1914)
『東京府志料 十三(第3巻)』東京都政史料館、1959
『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』石川悌二(新人物往来社、1977)
『角川日本地名大辞典 13東京』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)
『東京の橋―水辺の都市環境』伊東孝(鹿島出版会、1986)
『江戸城武家屋敷名鑑』朝倉治彦監修(原書房、1988)
『藩史大事典 第2巻 関東編』木村礎・藤野保・村上直編(雄山閣出版、1989)
『日本歴史叢書 天保の改革』藤田寛(吉川弘文館、1989)
『中央区沿革図集[日本橋篇]』東京都中央区京橋図書館、1995
『江戸・東京 歴史の散歩道1 中央区・台東区・墨田区・江東区』街と暮らし社編(町と暮らし社、1999)
『図説 江戸・東京の川と水辺の辞典』鈴木理生(柏書房、2003)、
『東京の橋 100選+100』紅林章央(都政新報社、2018)
参考文献:
『帝都復興史 附・横浜復興記念史、第2巻』復興調査協会編(興文堂書院、1930)、
『帝都復興事業誌 土木編 上巻』復興事務局編(復興事務局、1931)、
『帝都復興区劃整理誌 第1篇 帝都復興事業概観』東京市編(東京市、1932)、
『神田文化史』中村薫(神田史蹟研究会、1935)
『東京市史稿 橋梁篇第一』(東京市役所、1936)、
『中央区史 上巻・下巻』(東京都中央区役所、1958)、
『東京繁昌記』木村荘八(演劇出版社、1958)
『千代田区史 上巻』千代田区役所、1960
『中央区文化財調査報告書 第5集 中央区の橋・橋詰広場-中央区近代橋梁調査-』(東京都中央区教育委員会教育課文化財係、1999)
『千代田区史 区政史編』(千代田区総務部、1998)、
『江戸・東京 歴史の散歩道2 千代田区・新宿区・文京区』街と暮らし社編(町と暮らし社、2000)
『東京暗渠学』本田創(洋泉社、2017)
次回は谷田部藩(茂木藩)本所菊川町下屋敷跡を歩いてみましょう。
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