前回は、ルイス・フロイス『日本史』に描かれた五島の様子を見てきました。
今回は、いよいよ豊臣秀吉が九州征伐をおこなったころの五島をみていきましょう。
宇久氏の歴史
まずは、宇久氏についてのおさらいから。
五島列島北端の宇久島を拠点としていた宇久氏は、しだいに勢力を伸ばした結果、8代宇久覚(さとる)は永徳3年(1383)に宇久島から福江島の岐宿へ、9代勝(まさる)は嘉慶2年(1388)岐宿から深江(のちの福江)辰の口に城を築いて本拠とします。
その後、親族の玉之浦納が反乱を起こして辰の口城は焼失、宇久氏は一時領国を失いますが、宇久定盛はこれを破って領地を回復し、大永6年(1526)ころに福江の江川に城を築いて本拠としました。(第6回「宇久氏登場」参照)
その後、宇久氏は、純定、純尭、純玄と続きます。
五島(宇久)純玄(すみはる・1562~1594)
五島(宇久)純玄は、宇久氏第19代純尭の長男として江川城に生まれました。
父の純尭が家督を継いでわずか3年で没したため、天正15年(1587)純玄が家督を継ぎましたが、まだ幼かったために大叔父の盛重が実権を握っていたともいわれています。
純尭がキリシタンを保護したのに対して、キリスト教に反感を持つ盛重の意向を受けて純玄はキリシタンを弾圧したために、純定の三男・ルイス玄雅との対立が激化し、敗れた玄雅は長崎に亡命、のちに島津氏の仲介で和解して戻るなど、治世の当初は宗教問題での混乱がありました。
堺豪商小西氏
ところで、本能寺の変の後、織田信長のあとを羽柴秀吉が継ぎましたが、この秀吉が天正14年(1586)12月に豊臣姓を賜るとともに関白に就任すると、その祝賀に帰順した大浜孫右衛門(玄雅)を派遣しました。
そして玄雅は、五島への帰路に堺の豪商・小西隆佐を訪問すると、来年薩摩島津家討伐が行われるので、その案内役に純玄が当たるよう秀吉から命ぜられたとも伝えられています。(『三百藩藩主人名辞典』)
これは、宇久氏と堺の豪商・小西氏が海外交易を通じて結びついていたことを物語る逸話、ひょっとすると、豊臣秀吉への祝賀使派遣も、小西氏から進められてのことだったのかもしれません。
豊臣秀吉
こうして天正15年(1587)、純玄は手勢を率いて豊後府内に赴き、九州征伐のために下向した豊臣秀吉に謁して案内役を申し出たのです。
すると、秀吉は純玄に太刀一腰と朱印法度書を授けて所領を安堵したうえで、五島は遠境の孤島であるので、帰国して異国船防御の備えを行うよう命じたのでした。
そして約束通り、天正15年(1587)5月に九州統一が完了して九州国分けが行われると、純玄は7月に本領を安堵されたのです。(『三百藩藩主人名辞典』)
その後、文禄4年(1595)には五島でも検地が行われて、宇久氏の所領は明治元年(1868)弁官役所届けに記した「豊臣秀吉代壱万五千五百三十石」が確定しました。
こうして、五島は秀吉の支配体制に組み込まれていきます。
次回は、秀吉が晩年に行った朝鮮出兵と五島家をみていきましょう。
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