5月19日は、明治33年(1900)に京都で立命館大学の前身、京都法政学校が設立された日です。
そこで、学校設立に託された人々の思いをみてみましょう。
立命館のはじまり
立命館は、もと西園寺公望が20歳だった明治2年(1869)に京都御所内にあった邸宅に創立した私塾でした。
立命の名は、『孟子』の尽心章にある「殀壽不貳 修身以俟之 所以立命也」(意訳:人間の寿命は天命によって決められていて、修養に努めてその天命を待つのが人間の本分です)からとったもので、西園寺の志の高さがかいまみえます。
ところが、各地から学生が集まり、政治までも自由に議論する状況を危険とみなした京都府(太政官留守官)により、差止命令を受けて私塾は閉鎖されてしまったのです。
西園寺公望とは
西園寺家は藤原北家の流れをくむ精華家の一家で、摂関家に次ぐ公家の名門で公爵を授与されています。
西園寺公望(1849~1940)は、同じく公家の名門・徳大寺公純の二男として生まれ、西園寺家を継ぎました。
戊辰戦争では山陰・北陸を転戦して軍功をあげ、フランスに留学しパリ大学を卒業。
帰国後は明治法律学校を設立し、東洋自由新聞社社長となるものの、天皇の内勅により辞任して政界に入ります。
第2次政友会総裁となり、2度にわたって首相を務めました。
大正8年(1919)パリ講和会議主席全権委員をつとめたのち、昭和初期には最後の元老として内閣首班の奏薦にあたったのでした。
漢籍から西欧の学芸までおよぶ幅広く深い教養と識見を持ち、政党政治・政党内閣を擁護して国際協調外交による民主主義国家になることを目指していました。
また、名門藤原氏の当主として、だれよりも皇室の安寧を願っていたといいます。
中川小十郎
その後、明治33年(1900)に西園寺の側近で京都帝国大学の創立に書記官としてかかわった中川小十郎が、西園寺の精神を受け継いで京大法科教授を講師とする夜学の京都法政学校を創立します。
中川小十郎(1866~1944)は、丹波の郷士の家に生まれ、明治26年(1893)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、文部省に入りました。
そこで大臣を務めていた西園寺の秘書官・参事官を務めたことから西園寺との関係がいまれました。
後にみるように、実業や学校創設・経営にかかわり、貴族院議員も務めましたが、終生西園寺の家職として尽くしています。
立命館大学誕生まで
その後、明治36年(1903)に専門学校令による京都法政専門学校となり、昼間部も開設されました。
明治37年(1904)には私立京都法政大学と改称します。
そして明治38年(1905)に西園寺から立命館の名称を継承することを許されて、大正2年(1913)財団法人立命館が創立されると、これに合わせて私立立命館大学に改称したのです。
大正11年(1922)大学令による立命館大学に昇格、このときの学生総数は1,534名でした。
立命館に改称してからは、中川は館長を務める一方で、西園寺首相秘書官、樺太庁、台湾銀行に在任して名目上の館長となっていました。
実際の学事は学長の富井政章と教頭・学監をつとめた京大法科教授たちにゆだねられていたのです。
しかし、大正14年(1925)に中川は台湾銀行頭取を退任して京都に移り住んで学園経営に専念し、みずから総長に就任します。
その後、昭和3年(1928)の御大典に一部学生によって禁衛隊が組織されるなど、学園の国家主義的傾向が強まりましたが、昭和8年(1923)には滝川事件(京大事件)で辞職した教授ら17名を招聘して大いに注目を集めました。
設立から学園の発展に尽くしてきた中川小十郎は、昭和19年(1944)に死去します。
その後、第二次大戦後は末川博が総長に就任し、平和と民主主義の教学理念をかかげて新制大学に移行し、私学の中でも特色ある存在となったのです。
立命館学園
こうして現在、立命館学園は立命館大学と、平成12年(2000)開学の立命館アジア太平洋大学(大分県別府市)の2つの大学、立命館小学校、立命館守山中・高等学校、立命館中・高等学校、立命館宇治中・高等学校、立命館慶祥中・高等学校という5つの附属校をもつ総合学園にまで発展しています。
また、立命館大学は法学部をはじめとする16学部、大学院に18の研究科などを備えた総合大学で、教員数1,414名、生徒数は学部生32,467名、博士課程前期・修士課程2,606名、博士課程後期596名などで、卒業生の総計はおよそ3万人を誇っています。(以上は2022年5月1日現在、学校法人立命館Webサイトによる)
西園寺公望の夢
西園寺公望は、その理想実現を五・一五事件と二・二六事件、さらには軍部の台頭によって挫かれ、失意にうちにその生涯を閉じました。
しかし、小川小十郎が設立した立命館大学は、西園寺の遺志を継いで3万人もの人材を輩出し、民主国家日本の発展に寄与しているのです。
こうしてみると、一度挫折した西園寺の夢は、立命館大学を通じて叶えられたのかもしれません。
(この文章では、敬称を略させていただきました。また、学校法人立命館Webサイトおよび立命館『国史大辞典』『大学事典』関連項目を参考に執筆しています。)
きのう(5月18日)
明日(5月20日)
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