前回は、立花家のはじまりから立花道雪までをみてきました。
そこで今回は、道雪の跡を継いだ宗茂についてみてみましょう。
立花宗茂
立花宗茂(むねしげ・1569~1642)は、永禄10年(1567)に豊後国国東郡筧、現在の大分県豊後高田市で大友氏の一族で重臣の吉弘鎮理、のちの高橋紹運の長男として生まれました。
宗茂は、高橋統虎、立花鎮虎、宗虎、正成、親成、尚政、俊正そして晩年に宗茂と、時に応じて様々な名乗を用いています。
ここでは、もっとも広く知られる宗茂の名に統一しますのでご承知ください。
永禄12年(1569)に父の鑑理が高橋家の名跡を継いで高橋姓を名乗ったので、高橋家の嫡男として育てられました。
天正9年(1581)には秋月・筑紫両氏の連合軍との戦いに、立花道雪とともに参加して初陣を飾ったのです。
この時に戦功をあげたこともあって、道雪に請われて娘の誾千代と結婚して立花家に婿養子に入ります。
その後も実父紹運や養父道雪とともに筑前と筑後を転戦し、次々と武功をあげていきました。
対島津戦
ところが、竜造寺氏との戦いのさなか、天正13年(1585)に養父道雪が高良山で病死すると、屋台骨を失った大友軍は、守勢へと追い込まれてしまったのです。
そうした中、天正14年(1586)7月、龍造寺氏を下して勢いに乗る島津氏は、島津忠長と伊集院忠棟率いる5万の大軍が筑後国を抜いて筑前国に侵攻してきます。
これに対して大友軍は、岩屋城に高橋紹運、宝満山城に紹運二男で宗茂の実弟統増、のちの立花直次、そして立花山城に宗茂が籠り、島津軍を迎え撃ちました。
緒戦の岩屋城攻防では半月に及ぶ激闘の末、守備する大友軍763人の全員が討死、紹運も壮絶な割腹して果てて落城してしまったのです。
宝満山城も島津家の策により陥落し、島津軍はいよいよ宗茂の守る立花山城に迫りました。
立花山城攻撃を囲んだ島津軍でしたが、紹運と戦った損害は大きく、攻め手に欠く状況となったことで、戦いは小康状態に入ります。
ここまで立花宗茂の初陣から立花山城攻防戦までをみてきました。
勢いに乗る島津軍は、このまま九州を平定するのでしょうか。
そこで次回は、宗茂の反撃についてみてみましょう。
《今回の記事は、『福岡県史』『旧柳川藩誌』『角川日本地名大辞典』『福岡県の歴史』『国史大辞典』をもとに執筆しました。》
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