前回は立花家第十三代にして立花伯爵家初代の立花寛治についてみてきました。
今回は、寛治の跡を継いだ鑑德についてみてみましょう。
なお、立花鑑德の「德」字は、徳と德の表記が混在する状況となっていますが、『平成新修旧華族家系大成』に準拠して「德」字で統一することにしますのでご承知ください。
立花伯爵家二代鑑德(あきのり・1884~1957)
明治17年(1884)2月16日、寛治の長男として生まれました。
東京帝国大学農学部實科に進学し、卒業は徳川(田安)達孝三女の艶子と結婚して、東京牛込区市ヶ谷仲之町16の邸宅で暮らしています。
昭和4年(1929)2月5日、73歳で父・寛治が死去すると、父の遺志を継いで柳川に還り、農業振興に尽くします。
また、昭和4年(1929)には紺綬褒章を下賜されただけではなく、立花家の家産を引き継いだことで、昭和14年(1939)直接国税9,238円を収めるなど、昭和8年(1933)以降は福岡県で第二位の高額納税者となりました。
そして鑑德は、父が築き上げた立花農事試験場(山中農場)を引き継ぎつつもあらたに柳川郊外に橘香園をつくります。
ここで取り組んだのは温州ミカンの栽培だったのです。
温州ミカン
温州ミカンは、名前こそ中国におけるミカンの名産地・温州の名を借りるものの、れっきとした日本原産のミカンです。
この温州ミカン、江戸時代初期に薩摩国出水郡長島郷で偶発実生によって発生したといわれています。
果皮がむきやすく、種なしで食べやすい特質をもっているのですが、江戸時代には種がないことが「種なし」つまり不妊につながるとして忌み嫌われました。
ところが明治時代に入ると、江戸時代に嫌われた種なしが逆に食べやすいと好まれるようになり、一気に栽培が広がっていったのです。
ミカンの品種改良
ミカンは果実の熟する時期や果皮色なのに枝変わりが出やすいため、その選抜によって多数の品種が生まれることになります。
大正4年(1915)ころ、福岡県柳川市の医師宮川謙吉の宅地内で、在来系温州ミカンの一枝が変異して発生しました。
これが大正14年(1925)に田中長三郎博士によって「宮川早生」と名付けられ、のちに早生の代表的系統として各地で広く栽培されるようになります。
このように、ミカンは熟する時期や実色の異なる品種や、品質のすぐれた種をつくることが商品の差別化につながって、売り上げに直結したのです。
鑑德はこの「宮川早生」普及のため、橘香園で大規模に苗木を作成して全国に広めることに勤めしました。
こうした鑑徳の努力もあって、早生系をはじめ、温州ミカン栽培は、全国のミカン産地に広まっていきます。
温州ミカンは栽培地が広がるにつれて様々な品種が生まれ、在来系、平系、池田系、伊木力系、尾張系、初期の早生系といった6系統に分かれていったのです。
現在では熟期によって、極早生(ごくわせ)、早生、中生(なかて)、普通の系統に分かれて、秋から冬にかけて長い時期楽しめるようになりました。(『園芸植物大事典』『原色果実図鑑』『国史大辞典』)
寛德の郷土愛
ここまでみたように、立花家第十四代寛德は、農業を通じて国と地域の発展に尽くす篤農家、その姿はまさに華族の鑑ともいえるものでした。
そんな彼は、常々「オレの友達は海と川の漁師ばかリ」といい、質素な柳川をこよなく愛していたのです。
そんな鑑德は、同じくふるさと柳川を深く愛した詩人北原白秋とも交流が深かったと伝えられています。
北原白秋
白秋は明治18年(1885)に柳川郊外の沖端で代々柳川藩の御用達を勤めた裕福な海産物問屋・造り酒屋に生まれました。
はやくも県立中学伝習館在学中から雑誌『文庫』に短歌を投稿して活躍しはじめました。
明治37年に上京、早稲田大学に入ると『明星』に参加して詩壇の注目を集めます。
1908年に「パンの会」を起こし、1909年に詩集『邪宗門』、1911年に抒情小曲集『思ひ出』を出して名声を確立したのです。
その後、58歳で没するまで、短歌や詩のみならず、童謡・民謡・歌謡でも独自の境地を開拓して名声を不動のものにしています。(『日本近代文学大事典』『国史大辞典』
そして白秋は、故郷柳川を深く愛し、数々の名作を作り上げました。
白秋は「白秋祭」に名を遺すように、柳川の人々の心のよりどころにもなっているのです。
こよなく柳川を愛した鑑德は、昭和21年(1946)3月1日隠居して家督を養嗣子の和雄に譲ったあと、昭和32年(1957)2月3日に没しました。
なお、鑑德がつくった橘香園(福岡県大牟田市上川)は、現在も子孫によって守り伝えられて、おいしい蜜柑をつくり続けています。
今回は第十四代立花家当主・鑑德についてみてきました。
次回は、鑑德が愛情を注いだ一人娘の文子についてみてみましょう。
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