第一次蔚山城攻防戦【筑後国柳川藩立花家(福岡県)11】

前回は、碧蹄館の戦いのあと、宗茂が柳川に帰還するまでをみてきました。

しかし朝鮮出兵は、これで終わりではなかったのです。

そこで今回は、慶長の役の激戦、第一次蔚山城攻防戦をみてみましょう。

慶長の役

慶長2年(1597)、日明間の和平交渉は決裂し、日本軍は再度、朝鮮に出兵しました。

再上陸した日本軍は、8月に南原城、さらに黄石山城などの攻略にかかります。

この間、宗茂は侵攻軍ではなく安骨浦城の守備を命じられ、のちに吉川広家の守る固城に入りました。

第一次蔚山城攻防戦

慶長2年(1597)12月22日、築城中の蔚山城を明軍が急襲し、日本軍は大きな被害を出しつつも出来上がっていた内城に籠り、加藤清正指揮のもと籠城戦に入ります。

5万を超える明・朝鮮連合軍の猛攻に、清正は火力で対抗しましたが、完成まもない城内には十分な食料もなく、朝鮮半島の厳しい寒さと相まって、城陥落は目前に迫っていたのです。

『蔚山籠城図屏風』〔部分〕(Wikipediaより20211206ダウンロード)の画像。
【『蔚山籠城図屏風』〔部分〕(Wikipediaより)】

籠城戦開始から10日後の慶長3年(1598)1月3日、ようやく毛利秀元・黒田長政らの援軍が蔚山城南方に到着、長曾我部元親らの水軍も来援して明軍は逆に窮地に立ちます。

ここで明軍は最後の猛攻を仕掛けましたが、援軍到来を知った籠城軍が息を吹き返してこれを撃退すしたのです。

すると、明・朝鮮連合軍は、籠城軍と援軍に挟撃されることを恐れて慶州方面に撤退を開始しました。

この機を逃さず、援軍の吉川広家らが敵陣にむかって突撃を敢行、宗茂もこれに続いて明軍の側面を攻撃すると、明軍は潰走をはじめました。

ここに黒田長政、小早川秀秋ら主力が突撃、さらに城に籠っていた清正軍も討ってでて、明軍は壊滅的被害を出して漢城まで撤退します。

吉川広家(Wikipediaより20211206ダウンロード)の画像。
【吉川広家(Wikipediaより)】

般丹の戦い

じつはこの合戦前、固城から蔚山へ向かう宗茂は到着が二日遅れたのですが、その間にこんなことがあったという資料もあります。

蔚山へ進撃した日本軍のすきをついて釜山を攻撃した明軍の大軍を、宇喜多秀家の要請により、宗茂が迎撃に向かいました。

宗茂は、夜襲と火計で明軍に襲い掛かり、20倍を超える敵をみごと撃退に成功した、というもの。

たしかに、宗茂ならできるかもしれません。

固城守備

いずれにせよ、蔚山城攻防戦で大きな被害を出したことで、明軍経理楊鎬は更迭されています。

慶長3年(1598)1月、蔚山城救援のために吉川広家が西生浦城へ転進したあとに、代わって小早川秀包・高橋統増・筑紫広門が固城に入りました。

こうして救援にむかうときを除いて、宗茂は固城守備の任につくことになったのです。

安骨浦城会議

慶長3年(1598)1月下旬、総大将小早川秀秋が帰朝した後に、朝鮮在陣中の主な武将が安骨浦上に集結し、今後の戦略について話し合いました。

そこで、宇喜多秀家や毛利秀元、蜂須賀家政をはじめ、生駒一正、藤堂高虎、脇坂安治、池田秀氏、長曾我部元親などの諸将が、戦線の縮小を提案しました。

宇喜多秀家(Wikipediaより20211206ダウンロード)の画像。
【宇喜多秀家(Wikipediaより)】

その案の内容は以下のようなものでした。

第一次蔚山城攻防戦で苦戦した経験から考えると、明・朝鮮連合軍の本格的反攻がはじまった場合、蔚山、梁山、順天の三城を同時に救援することは困難。

そこで、この地域から撤退して、東を西生浦、西を泗川とする地域に占領地域を縮小しよう。

はたして戦線縮小の提案に、太閤秀吉はどう判断を下すのでしょうか。

そこで次回は、秀吉の判断とその後の展開をみていきましょう。

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