本能寺からはじまる苦難の歴史【維新の殿様 織田家柏原藩編(兵庫県)】➀

名門織田家の末裔

明治維新前後、激動する時代に生きた殿様たちの姿を描く「維新の殿様」、今回は名門織田家の末裔、丹波柏原藩の織田信親です。

「織田信長画像」(『愛知県史 第1巻』愛知県、1935 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【織田信長(『愛知県史 第1巻』愛知県、1935 国立国会図書館デジタルコレクション)】

天下に覇を唱えて戦国時代の終わりをもたらした一代の英雄・織田信長が本能寺の変で倒れてから、織田家は分家を繰り返しながらも後の時代まで生き残ってきました。

織田信親(ウィキペディアより2020.8.9ダウンロード)の画像。
【織田信親(ウィキペディアより)】

今回の主人公、織田信親は信長の次男信雄からの流れをくんでいて、彼の治世はまさに幕末維新の動乱期に当たっています。

信長の子孫が激動の時代をどう乗り切ったのか、今回はそこを見ていきたいと思います。

ではまず、信親を生み出した織田家の歴史から見ていきましょう。

なおこの文章は、暦年は明治政府が太陽暦を採用した明治5年12月以前は旧暦、以後は陽暦で記しています。

また、文中の敬称は省略させていただきました。

柏原藩織田家の歴史

桓武天皇の子孫たる桓武平氏の織田家、その第14代信長は尾張一国を平定し、全国統一に乗り出すものの、成就を直前にした天正10年(1582)、本能寺の変で明智光秀によって嫡男信忠とともに無念の死を遂げました。

織田信雄(Wikipediaより2020.8.17ダウンロード)の画像。
【織田信雄(Wikipediaより)】

その後、信長の次男信雄は清州城を与えられて尾張・伊賀・南伊勢四郡のおよそ百万石を領する大大名になります。

そして天正18年(1590)の小田原の陣後に豊臣秀吉から徳川家康の旧領の三河・遠江・駿河三国への転封を命じられると信雄はこれを拒否、これが秀吉の怒りを買って下野国烏山に配流されてしまいます。

ここは徳川家康がとりなしてなんとか秀吉の勘気を解き、信雄は相伴衆となって生き残ることができました。

そして秀吉の死後、関ヶ原の役や大坂夏の陣で豊臣方の加入を受けるもこれを拒否し続けます。

このことが評価されて、信雄は家康から五万石を与えられたのです。

大和松山藩時代

信雄の死後、領国は4男信良の上野国小幡二万石と5男高長の大和国松山三万石に分割相続されることとなります。

織田長高(Wikipediaより2020.8.17ダウンロード)の画像。
【織田高長(Wikipediaより)】

大和国松山三万石を継いだ5男高長(たかなが)は、藩主襲名以前に大阪夏の陣で前田利常に従って出陣して天王寺表の戦いで大野治房を下す戦功を挙げた武勇の人でした。

宇陀崩れ

その次男長頼(ながより)が万治二年に三代を襲名、その嫡男信武(のぶたけ)が四代を襲名します。

ところが信武の治世は藩政が不安定で家臣間の反目が激しく、ついに「宇陀崩れ」とよばれる騒動に発展してしまいます。

その責任を取って、騒動の張本人だった信武はなんと元禄7年(1694)に突然自刃。

幕府はその罪をとがめ、同年に嫡男信休(のぶやす)が家督を継ぐことを許すものの、8千石を減封のうえ丹波国柏原二万石への転封を命じました。

次回は柏原藩についてみていきたいと思います。

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