前回みたように、明和事件にともなって、織田家は上野国小幡から出羽国高畠へと国替えとなりました。
そこで今回は、織田家の高畠藩時代を見ていくことにしましょう。
織田信浮(のぶちか:1751~1818)
信浮は、宝暦元年(1751)に織田対馬守信栄の五男として生まれました。
じつは信浮は先代藩主信邦の実弟で、もともと信邦が養子と決めていたのです。
そんななか、前回みた明和事件が起こり、信邦が蟄居となったのに伴って明和4年(1767)8月に家督相続を許されるとともに、同年10月、織田家に出羽国置賜郡高畠、現在の山形県東置賜郡高畠町への国替が命じられました。
当時の高畠は隣の米沢藩が預かる幕府領でしたので、町はおろか陣屋も何もない状態だったのです。
それでも11月になると、織田家の家臣たちは高畠へと続々とやってきますが、住むところにも事欠くありさまでしたので、時の米沢藩主・上杉鷹山は米沢藩の家臣宅に分宿させるなど、大いに協力したといいます。
ようやく、翌明和5年(1768)4月になって高畠城の修繕がすみ、家臣たちは高畠に移ることができたのです。(『物語藩史』)
さて、国替えとなった織田家ですが、その所領は出羽国の置賜郡内に四千六百石余、村上郡内に一万二千石余、陸奥国信夫郡内に三千四百石余と、ひどく距離の離れたものであった上に、散在してまとまりがないものでした。
だからこそ、その中間地点である高畠を拠点としたのですが、統治の能率は悪く、コストもかかったのは言うまでもありません。
明和事件で出羽国と陸奥国の幕府領をかき集める形で用意された織田家の領地でしたので、石高が減らなかっただけでも感謝しなければいけないところ。
しかし、もともと上野国小幡時代から藩財政が破綻寸前でしたので、藩財政はすでに極限状態だったのです。
こうした中、幕府も高畠藩織田家の所領分散を問題に思ったのか、寛政12年(1800)に領地替えの幕命が下り、陸奥国信夫郡の三千四百石余の所領を出羽国村山郡に移すことになりました。
こうなると、領地はすべて出羽国に集まったとはいえ、藩庁を置く置賜郡内が四千六百石余なのに対して、村山郡内が一万五千六百石余と領地の四分の三以上が村山郡天童周辺に集まることとなったのです。(『物語藩史』)
ここで藩庁を天童に移したいところですが、なにせ藩の財政状態は最悪で、その費用を捻出する力はどこにも残っていません。
ですので、天童に小規模な陣屋を構えて高畠から必要な藩士を派遣するという体制をとるよりほかありませんでしたが、これが新たな事件を巻き起こすことになるのです。
享和の村上郡一揆
織田家の陸奥国信夫郡にあった所領がすべて出羽国村山郡内に移された寛政12年(1800)、村山郡一帯が深刻な凶作に見舞われました。
このため、翌享和元年(1801)に入ると米価は高騰し、これまでにない高値となって、人々の生活を苦しめます。
いっぽう、地域の農民たちが五月末の紅花の収穫を頼りにしていたところ、買い手がつかない状態となるほどの不振で大暴落し、農民の手取りが例年の三分の一にも満たないという状態になってしまったのです。
そんな折に、一部の商人が結託してコメを買い占めているとのうわさが立ち、村々に不穏な空気が流れました。
天童の陣屋もこの情報をキャッチして、とくに不穏な動きが活発な天童以南を警戒していたのですが、農民たちはその裏をかいて天童北方で一揆をおこし、商家を破壊し始めましたから、さあ大変。
発生した一揆勢はまたたく間に膨れ上がり、天童の商家を破壊すると、さらに勢いを増して数万を数えるまでになります。
一揆勢はその後もおさまるところを知らず、山形東方や南方にまで広がって、あたかも山形を包囲するかのように蜂起するまでになりました。
この事態を深刻にとらえた山形藩は、一揆勢の要求を聞いて善処を約束するいっぽうで、藩兵を動員して山形を防衛する体制を作ったのはいうまでもありません。
さらに、村山郡一揆の報告を受けた幕府も、米沢・庄内・二本松・新庄・福島・上山の六藩に出動を命じたうえに、仙台藩も五百人を超える援軍を派遣したのです。
また、事ここに及んでようやく藩も高畠から藩兵を百二十人以上を差し向けて、藩の総力を挙げて一揆勢の武力弾圧にあたっています。
こうした幕府や諸藩の強硬姿勢をうけて、一揆勢は瓦解、事態は収束に向かったのでした。
享和の村上郡一揆の衝撃
この一揆は、直接的には米価高騰により偶発的に起こったものでしたので、幕府は首謀者を処罰するとともに商人が暴利を得ることを抑えて事態の収束を図ると、事態は沈静化しました。
ですので、一揆勢の要求を一部認めたうえで、処罰も最高で遠島と意外にかるいものだったのです。
しかしこの一揆の最大の特徴は、各村の村民のほとんどが一揆に参加する、「惣一揆」であったことでした。
さらに、指導者の一部が小作農であったり、一揆に参加したものの多くが小作農であったりと、一揆が世直し的性格を帯びていたことも見逃せません。
そして、一揆勢が幕府領から高畠藩領に領主が変わって支配がまだ確立していないスキをついて起こったこと、さらに陣屋が対策する裏をかいて行動していることから見ても、その計画性に幕府や各藩が警戒を強めたことは当然といえるでしょう。
さかのぼってみてみると、この地方では、早くも享保8年(1723)に長瀞村質地一揆が起こっていますし、宝暦5年(1755)には天童で打ちこわしも起こっています。
ここ出羽国村山郡は、幕府と諸藩の領地が錯綜して入り組み、モザイク状となっていることから、一藩単独で一揆を取り締まることはほぼ不可能で、幕府の指揮命令を受けて諸藩の力を結集して事に当たらなければ一揆は防ぐことができない環境だったのです。
このような状況で、藩庁がはるか離れた場所にある高畠藩領は、いうなれば空白地帯ですので、山形藩はじめ周囲の諸藩は、高畠から天童への藩庁移転を強く望んだのは言うまでもありません。
信浮の藩政
前に見たように、明和事件で織田家が許されていた特別待遇のすべてを失ったうえに国替えとなり、藩財政は危機的状況で身動き取れないとなれば、藩全体がやる気を失うのもある意味仕方がないのかもしれません。
天明7年(1787)6月15日に米沢城下を発った古川古松軒は高畠を訪れて「高畠と云所は、織田左近将監候二万石の御在所なり。山県大弐が一件によつて、此地へ移され給ひし新地ゆえに、少しき町なり」、高畠の城下町が小さくてさみしいと記しています。(『地名大辞典』)
たしかに、わずか二十年では城下町の発展も望めないのかもしれません。
のちの話になりますが、織田家の置賜郡領地を嘉永元年(1848)に領地替えにより米沢藩に引き渡された折には、高畠陣屋では「御引渡しの書物穿鑿仕り候へども、是と申す書物これ無く困り入り申し候」と引継ぎ書類が作成されておらず、困るあり様だったこと(『物語藩史』)からみても、統治にかける熱意があるようには思えないのは私だけではないでしょう。
そんな中、文化7年(1810)には失火により高畠城(陣屋)が消失してしまいます。(『地名大辞典』)
最初に見たように、寛政12年(1800)の領地替えで所領の大半が天童周辺に移されたことにより、高畠に本拠を置く利点もなくなっていましたが、費用の面から考えたうえで簡素な本陣を再建する選択をして、ここはいったん高畠にとどまったのです。
まったく先の展望が見えない中、文政元年(1818)に40年余の治世ののち信浮は68歳で亡くなってしまいました。
今回は、高畠藩時代の織田家をみてきましたが、藩政がかなり危険な状態なのは疑いようもない事実。
ここからどうやって藩政を立て直すのでしょうか?
次回はいよいよ織田家天童藩が誕生するところをみてみましょう。
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