前回まで柳川藩の有明海干拓についてみてきました。
ところが、苦しい中でも安定状態にあった柳川藩に、突如として藩をゆるがす大事件が起こったのです。
そこで今回は、藩主貞則暗殺事件と、貞則の跡を継いだ鑑通についてみていきましょう。
六代 立花貞則(さだのり・1725~1746)
享保10年(1725)5月12日、貞俶の二男として柳川に生まれました。
生母は側室柴田喜右衛門の姉です。
兄が早世したため、享保19年(1734)3月に嫡子となり、延享元年(1744)7月、父貞俶の死にともない家督を相続しました。
貞則殺害される
ところが、延享3年(1746)6月、参勤の帰路、江戸を出立して柳川へ向かう途次の7月17日、豊前国大里浜、現在の福岡県北九州市において暴漢に襲われて死去してしまったのです。
享年22歳、福岡藩主黒田継高の娘と婚約中の出来事でした。
藩士たちは、貞則が生存しているかのようにみせかけて柳川へ帰城すると、7月27日に喪が発せられました。
貞則殺害の背景
この大事件、なんと公式には存在しないことになっているのですから驚きです。
柳川藩は、幕府に対して貞則が柳川で病気により急逝したと届け出たので、『寛政重修諸家譜』などの記録類もほとんどがこれに準じています。
柳川藩としては、是が非でも10万石の大名が暴漢に襲われて参勤途中で殺されるという異常事態を表沙汰にしたくはなかったのでしょう。
そのため、この事件に関する資料は残されておらず、犯行が個人か集団か、具体的な状況など、事件の真相は想像するよりありません。
ここでは、可能性があると思うところを、いくつかご紹介するにとどめます。
盗賊説
この説は、柳川藩が事件を完全に隠ぺいした事を根拠としているようです。
たしかに、大名家が参勤途上に襲われたというだけでも藩の大失態、尚武を旨とする柳川藩にとってはなおさらでしょう。
この場合は、ある意味柳川藩にとって最悪の事態といえるかもしれません。
ただ、参勤の間は屈強の藩士たちが警固しているはずですので、藩主がほとんど護衛をつけない状態になるという突発的事由が必要になってきます。
家督争い説
貞則の父・貞俶は、10男6女の子沢山で、しかも側室が6人もいたことに起因する説です。
貞俶の正室は立花貞晟の娘・松子(珂月院)で、この時点すでに亡くなっていました。
側室は柴田喜右衛門の姉・由井子(凉体院)、中野氏の娘・富子(観月院)、笠間浅右衛門の娘・須恵子(長養院)、角田六郎左衛門の娘・紋子(恵林院)、浅草観音前鍔屋の娘・峰子、町人甚作の娘・志津子です。
50年近くにわたる長い治世とはいえ、側室が多い感は否めません。
とはいえ、貞則と、その跡を継いだ鑑通の母は同じ柴田喜右衛門の姉・由井子(凉体院)であるのが整合しないように思えます。
利権説
貞則は、死の前年にあたる延享2年(1745)閏12月22日に銀札を発行し、その期限は15か年でした。
藩札の発行では大きな金が動きますので、その利権をめぐって何らかのトラブルがあったのでは、とする見方です。
しかし柳川藩は、元禄元年(1688)にはじめて銀札を発行したあと、中断と再発行を繰り返していて、藩札の信用はあまり高くなかったとみられます。
そうなると、藩札発行の「うまみ」も減ることになりますので、このあたりが問題かもしれません。
ここまで事件の原因を憶測してきたわけですが、もちろん真相は不明です。
しかし、柳川藩が貞則殺害を隠ぺいしたまま、弟の鑑通を養嗣子として家督を継がせることに成功したのは事実です。
事件の謎は深まるばかり、みなさんはどのように考えられますか?
今回は、六代藩主貞則の暗殺事件をみてきました。
次回は、この後を継いだ鑑通の時代をみてみましょう。
《今回の記事は、『寛政重修諸家譜』『江戸時代全大名家事典』『三百藩藩主人名事典』にもとづいて執筆しました。》
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