前回は、危機が続く柳川藩政のなかで、のちに藩を担う人材を輩出した藩校伝習館についてみてきました。
こうしたなか、柳川藩では思わぬ不幸に見舞われることになります。
今回は突如訪れた危機を、見事に機転で切り抜けた藩主交代劇についてみてみましょう。
ちなみに、この事件は特に名前が付けられていませんので、ここでは仮に「藩主替え玉事件」と呼ぶことにします。
十代 鑑広(あきひろ・1823~1833)
鑑広は、文政6年(1823)8月21日、鑑賢の長男として柳川で生まれました。
生母は側室宝珠山玄琢の娘、幼名は万寿丸です。
天保元年3月に嫡子となりましたので、5月6日江戸へ向けて柳川を出発、6月に江戸に到着しました。
8月19日、父・鑑賢の隠居に伴ってわずか8歳で家督を相続し、名を鑑広と改めます。
さらに、12月13日には土佐国高知藩主山内豊策の娘・兎見との婚約が調い、順風満帆かと思われました。
ところが、3年後の天保4年(1833)2月に大病にかかり、なんと2月19日、11歳の若さで没してしまったのです。
幼年で世子がなかったために喪を徹底的に秘して、邸内に仮葬したのです。
御家存亡の危機
こうして、柳川藩は突然お家断絶の危機を迎えました。
というのも、亡くなった藩主鑑広は病気のため将軍への初目見がまだですし、当時の慣例では17歳未満では末期養子の許可が下りる見込みはほとんどなかったのです。
このままでは無嫡子でお家断絶は免れません。
奇策
そこで藩上層部が打ち出した秘策が「藩主替え玉」でした。
鑑広の2歳年下の弟・俣二郎が7月11日夜、江戸下谷の上屋敷に密かに兄の身代わりとして入り、兄の幼名万寿丸を称したのです。
そして幕府には鑑広の病気が無事に全壊したと届け出ます。
こうして兄と弟は同一人物とされて、兄・鑑広の死は徹底的に秘匿されました。
その隠しっぷりはすさまじく、兄・鑑広の墓が作られたのは嘉永になってから、それまでは観音堂をつくって密かに祀っていたといいます。
また、記録上も兄・鑑広の存在は徹底的に消し去られて、その死が公表されたのは明治後半といいますから、驚くほかありません。
お目見
こうして俣二郎は、兄の幼名万寿丸を名乗ったのち、天保6年(1835)に鑑広として十代将軍家斉にお目見したあと、諱を鑑備と改めまています。
前にみたように、鑑広は生前に土佐藩主山内豊策の六女・兎見と婚約していましたので、鑑備はこれを当然引き継いだのですが、兎見は夭折して婚約が果たされることはありませんでした。
十一代 鑑備(あきのぶ・1827~1846)
ここで改めて立花鑑備についてみておきましょう。
鑑備は、文政10年(1827)8月21日、鑑賢の二男として柳川に生まれた。
生母は兄・鑑広と同じ側室宝珠山玄琢の娘、清光院です。
実兄鑑広が11歳で病没し、まだ世子がなかったため、天保4年7月に江戸下谷の藩邸に実兄の身代わりとなりすまして入邸、密かに家督を相続したのは前にみたとおり。
天保7年(1836)4月15日、東海道諸川筋の修復を命ぜられています。
6月13日に柳川に入りますが、病弱で江戸に上ることができず、柳川にとどまりました。
天保11年(1840)に安芸国広島藩主浅野斉賢の娘・加代子と婚姻しますが、天保13年(1842)に離別。
弘化2年11月23日に鑑寛を養嗣子に迎えます。
そして在任13年後の弘化3年(1846)3月24日、20歳で没しました。
若き藩主の突然の死によって引き起こされた藩存続の危機威を奇策で何とか切り抜けた柳川藩。
しかし、うち続く藩政の危機には手を打てずじまい、その間にも社会不安は広がり、藩財政は悪化を続けていました。
そこで次回は、柳川藩を一気に改革した十二代藩主鑑寛の時代をみてみましょう
《「藩主替え玉事件」については、『福岡県の歴史』『三百藩藩士人名事典』『江戸時代全大名家事典』に依拠して執筆しました。》
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