前回は、豪傑崩れについてみてきました。
藩政が行き詰まりを見せる中、幾度も藩政改革を試みましたが、危機を解消するには至っていません。
その中でも、九代鑑賢(あきかた・1789~1830)治世におこなわれた藩校伝習館の創立は、のちに大きな意味を持つことになります。
そこで今回は、藩校設立までの道筋とその後をみてみましょう。
安東省庵(あんどう せいあん・1722~1803)
柳川藩で学問の道を切り開いたのは安東省庵です。
省庵は、柳川藩士安東親清の二男として生まれ、柳川の藩風のなかで、少年時代にはもっぱら武芸に励んだといいます。
慶安2年(1649)京都に留学し、松永尺五につて朱子学を学び、ついで江戸や京都で学問を収めました。
万治2年(1659)柳川に帰ると、藩主立花忠茂の侍講に登用され、知行200石を与えられます。
朱舜水との厚誼
省庵は、明の儒学者・朱舜水が長崎に亡命すると、舜水に弟子の礼をとり、鎖国化で困難な滞留許可を取得するために尽力したのです。
さらに、明復興のために奔走して金を使い果たした舜水に、自身の俸禄の半分を割いて贈り、その苦境を6年にもわたって援けました。
寛文5年(1665)7月、舜水を水戸藩主徳川光圀が賓師の礼で江戸に迎え入れる途中に、舜水は遠回りして柳川に立ち寄り、省庵を訪ねています。
そのとき、舜水が省庵の厚誼に感謝して贈ったという孔子像が現在も残されています。
また、のちに舜水は省庵に金子や高価な品を贈りましたが、省庵はすべて送り返して受けとることはなかったそうです。
省庵は、朱子学の伝統の上に立ちながら舜水の実学を学び、伊藤仁斎の古学にも強い影響を受けて、独自の学問的業績を作り上げ、その名を全国に轟かしました。
のちに伊藤東涯は、清貧に甘んじて学問を第一とした省庵を「関西の巨儒」と高く評したように、日本の儒学で省庵は大きな事績を残しています。
藩校の前身
ここまでみたように省庵は「柳川学問の祖」と称され、その子孫は代々家学を継ぎ、儒者として柳川藩に仕えることとなりました。
このため、柳川藩では、省斎以来藩儒を勤めた安東家の弘道館と、横地家の麗沢館が長く柳川藩士の教育を担っていきます。
その後、藩政改革を進めていた七代藩主鑑通は、省庵の曽孫間庵に対し、邸内に文学の講堂と聖堂を建てて、藩士子弟の教育を行うように命じました。
藩校伝習館
そして文政7年(1824)九代藩主鑑賢は、藩政改革の人材育成のために藩校伝習館を開きます。
職員として、教授・助教・訓導師・句読師などの教員と、学事全般の取り締まりにあたる上聞・学監・書物方などの事務官をおき、のちに寮頭が加えられています。
入学資格は士分以上に限られていましたが、藩校への入学は義務とはされていませんでした。
生徒数は普通150名ほどで、教科は朱子学による漢藉の学習と小笠原流の礼法習得、武術は各自師匠を選んで修行するというものでした。
おそらく柳川藩の藩風を反映してか、武芸を尊重する気風が強かったといいます。
藩校のその後
慶応4年(=明治元年)(1868)2月には、藩校をいったん閉鎖して藩兵を奥州など戦地へと派遣しています。
戊辰戦争が終結すると、明治2年(1869)に藩校を復活させて、文武館と改称しました。
教科についても、洋学と算術が加えられて近代化が図られました。
そして、明治4年(1871)の廃藩置県でも公立として存続されますが、明治20年(1887)に廃止となっています。
藩校伝習館が置かれたのは、旧柳川消防署のあった柳川市本町付近です。
こうして藩校は廃止されましたが、その遺産は明治27年(1897)設立の福岡県立伝習館中学へと引き継がれ、福岡県立伝習館高校となった現在も、地域の人々から大切にされています。
今回は、危機が続く柳川藩政のなかで、のちに藩を担う人材を輩出した藩校伝習館についてみてきました。
こうしたなか、柳川藩では思わぬ不幸に見舞われることになります。
そこで次回は突如訪れた危機を、見事に機転で切り抜けた藩主交代劇についてみてみましょう。
《今回の記事は、『安東省庵』『福岡県の歴史』『近世藩制・藩校大事典』にもとづいて執筆しました。》
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