前回までにみたように、田中氏から引き継いだ柳川の領国は、二代忠茂までに藩政が整備・確立されて安定期を迎えます。
この時代、尚武の気風をまもる柳川藩は、安定した時代が続くことになりました。
そこで今回は、三代鑑虎の治世をみてみましょう。
三代 立花鑑虎(あきとら・1645~1702)
正保2年(1645)11月15日、忠茂の四男として江戸で生まれました。
生母は陸奥国伊達藩主伊達忠宗の娘で、その輿入れの際には豪華な輿入れ道具の数々が多くの逸話を生んでいます。(第58回「柳川藩上屋敷・立花伯爵家下谷邸跡を歩く」参照)
寛文4年(1664)閏5月、父忠茂の隠居に伴って家督を相続しました。
在任32年間の長きにわたったが、元禄9年(1696)7月に致仕して英山と号し、元禄15年(1702)6月23日、58歳で没しています。
『土芥寇讎記』には鑑虎について、「生得寛然トシテ、才智有リ。文武両道ニモ志シ、文ヲ後ニシ、武ヲ先トス。淳直ニシテ邪曲ナク、国道之政道、順也。家士悉ク武芸ヲ励ム。家民ニ哀憐アル故ニ、士民共ニ豊也」と評しているのです。
鑑虎の事績
鑑虎の事績としては、まず第一に年貢増収への取り組みがあげられるでしょう。
延宝元年(1673)、藩営の干拓地黒崎開を完成したのをはじめ、干拓事業は鑑虎以降に最盛期を迎えます。(第28回「有明海干拓」参照)
また、天和元年(1682)9月から貞享4年(1687)3月にかけて領内総検地を行い、新たに2万石近くを打ち出し、年貢5万5,000余石を算出していますし、延宝6年(1678)の大野島の検地も、年貢増収策の一環です。
予兆
順調に見える鑑虎の治世ですが、このときすでに藩財政悪化の予兆が見え始めていました。
もちろん鑑虎は、これに対しても必要な処置を施しています。
寛文10年(1670)5月には新酒醸造停止の条目を発したのも、年貢となる米の不足を防ぐため、延宝元年(1673)の奉公人改め条目の発布は、年貢を納める農民の減少を止めるためでしょう。
また、藩士や領民の困窮を防ぐために倹約を奨励しました。
延宝7年(1679)の家中諸士戒飾に関する法令の発布、延宝8年(1680)の士民一統倹約令などが挙げられます。
そして、領内の綱紀粛正にも取り組んで、鑑虎治世の寛文5年(1665)には宗門改め実施、元禄8年(1695)には町在掟および覚書を発布して引き締めを図りました。
このように、鑑虎治世の終わりに近い元禄期(1688~1704)には、はやくも貨幣経済の浸透によって、藩士や農民の窮乏がはじまっていたのです。
このため、鑑虎の跡を継いだ四代鑑任、五代貞俶は、自然災害が打ち続いて追い打ちをかけたこともあり、藩財政改善に取り組まざるをえませんでした。
次回は、鑑任と貞俶の時代に行われた享保の改革をみていきましょう。
《今回の記事は、『福岡県史』『旧柳川藩誌』『福岡県の歴史』『三百藩藩主人名事典』『江戸時代全大名家事典』にもとづいて執筆しました。》
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