《最寄り駅:東京メトロ丸の内線・南北線 後楽園駅、都営地下鉄大江戸線・三田線 春日駅》
明治時代はじめ、足利子爵家は喜連川藩時代の抱え屋敷である東京市下谷区池之端七軒町(現在の台東区池之端2丁目)に本邸をおきました。
その後、於菟丸が家督を継いでからは、本所区新小梅町一番地の水戸徳川侯爵家小梅邸で幼少期を過ごした後、本郷区駒込千駄木林町21番地を経て小石川区上富坂町30番地に屋敷を構えます。
今回はこの上富坂町の屋敷跡を訪ねてみましょう。
なお、グーグルマップは屋敷近くの上富坂教会を示しています。
スタートは、東京メトロ丸の内線・南北線 後楽園駅、都営地下鉄大江戸線・三田線 春日駅の6番出口、この出口は四つの駅共通で、地上には文京区の区役所が建っています。
西富坂
地上に出ると、目の前には千川通をはさんで向こう側に、緑がまぶしい礫川公園が目に飛び込んできました。
その少し右手をみると、公園の横を走る長い上り坂になっている大きな道がみえますが、これが春日通です。
そしてこの坂が富坂、正確には西富坂で、俗説では江戸時代には鳶が多く飛んでいたのが坂名の由来などといいます。
しかし実際は、春日町の交差点をはさんだ谷を通称「二ツ谷」と呼んでいて、この谷の両側にまたがっている坂なので、飛坂と呼んだのが本来の由来。
ですから、千川通を挟んで、東側に東富坂、これにむかいあってこの西富坂があるわけです。(以上『東京の坂道』)
いまでは鳶はすっかり姿を消しましたが、春日通の南には中央大学理工学部の校舎が林立しているのが目を引きます。
西富坂の北側を上がって西方向に進み、坂道を登り切る少し手前にある北に延びる道を曲がりましょう。
この道を北に向かってしばらく進むと、ゆるい下り坂となるところに立派な石碑が建っていました。
よく見ると、「三浦梧楼卿終焉の地」とあるではありませんか!
三浦梧楼
三浦梧楼(1847~1926)は幕末・明治の軍人・政治家です。
長州藩士の養子だった梧楼は、藩校明倫館で学んだあと奇兵隊に入り、第二次長州征伐や戊辰戦争で活躍、兵部権大丞、東京鎮台司令官、広島鎮台司令官を歴任しました。
西南戦争では第三旅団長として各地を転戦したのち、西郷隆盛が立て籠もる鹿児島の城山を攻め落としています。
しかし長州出身でありながらも山県有朋とは犬猿の仲、ことごとく山縣らと対立した結果、予備役に編入されてしまいました。
明治21年(1888)11月には学習院長に就任、同23年(1890)には子爵に叙され、貴族院議員にもなっています。
いっぽうで、明治28年(1895)の閔妃暗殺事件に深く関与し、投獄された経験も。
晩年は政党政治の確立に協力し、大正13年(1924)の第二次護憲運動では3党首会談を仲介し、「護憲三派」結成合意への道筋をつけています。(以上、国立国会図書館HP・近代日本人の肖像、『国史大辞典』)
碑文の説明板によると、上富坂町会の設立時に多大な支援をし、町会長候補にもなったとありました。
町の人たちから慕われて立派な碑が建てられるとは、いかにも梧楼らしいではありませんか。
三浦梧楼終焉の地碑からさらに北へ進むと、今度は少女二人の姿を映した碑が見えてきました。
慰霊碑
これは、昭和46年(1971)にこの地で幼女二人が犠牲になる痛ましい交通事故が起こった慰霊碑です。
慰霊碑のある四つ角をよく見てみると、北側に森の中にたたずむ「上富坂教会」が見えてきました。
上富坂教会とドイツ東亜伝道会
上富坂教会は明治20年(1887)に設立された由緒ある教会です。
深い森の奥にある建物の正面は可愛い感じですが、裏手に回ると創建当時のものらしき立派なレンガ積の壁が見えています。
じつはここ、ドイツの教会が日本宣教の拠点とした場所でした。
明治時代には、この地にドイツ東亜伝道会(Deutsche Ostasien Mission:通称DOAM)が拠点を置き、先の上富坂教会をはじめ、幼稚園、学生寮などが設立されたのです。
戦後はこれに富坂セミナーハウス等の施設が加わって、多くの日本人キリスト者がここを巣立っていきました。(富坂キリスト教センターHP)
現在においても、キリスト教の宣教と研究の拠点となっています。
富坂まきば保育園
足利子爵家上富坂屋敷跡推定地
ここで、上富坂教会南側の道を西に進みましょう。
この地域は、道の北側に広がる駐車場はじめ、道の奥にある富坂まきば保育園などの富坂キリスト教センター関連施設が集まっています。
そうした中にあるマンション・小石川グランドヒルズ付近が足利子爵家上富坂屋敷跡と推定されるところです。
残念ながら、周囲を探してみても、当時の遺構は見つかりませんでした。
六角坂
上富坂教会まで戻ってこんどは北に進むと、ゆるい下り坂が見えてきました。
この坂、途中で斜め45度くらいに折れ曲がっているのですが、江戸時代にはこのあたりに高家六角家の屋敷があったのが坂名の由来です。
かつて坂の下には明治20年代に川上眉山が住んでいました。
この坂下付近一帯が「小石川の柳町」、小石川砲兵工廠の職工をはじめ労務者の集まる「スラム」と呼ばれた場所でした。(『東京の坂道』)
坂を下って丁字路を左に曲がって、再び丁字路を左に曲がり、くるりと回る形になって細道を今度は西に進みましょう。
坂の途中にある澤蔵司稲荷 澤蔵司稲荷からの眺め
善光寺坂
すると、ほどなく古びた門のあるいい感じの坂道に出てきました。
これが善光寺坂で、坂の途中に善光寺があるのが坂名の由来です。
この善光寺、徳川家康生母伝通院が守り本尊としていた阿弥陀如来を本尊とする伝通院の塔頭・縁受院でしたが、明治17年(1884)に改称して信濃善光寺の分院となりました。(『東京の坂道』)
趣のある坂ですが、坂名は明治につけられた新しいものというのはちょっと意外な気がします。
そう言えば、この坂上に島木赤彦が下宿した「いろは館」があったかな、などと思っていると、幸田露伴、徳田秋声、古泉千樫などの文人ゆかりの地であると案内板にありました。
この坂が今日の散策の楽しみの一つでしたから、途中の澤蔵司(たくぞうす)稲荷の石段を横にみて、坂上にある椋木の巨木を見上げながら坂道を堪能したのは言うまでもありません。
この坂上のムクノキは樹齢400年を超える古木、この木に澤蔵司の魂が宿っているという伝説を持つ名木です。
第二次世界大戦で空襲を受けて、今でも一部が炭化して残っているとありますが、それがどこか分からないくらい勢いがあるのに驚きました。
山門 本堂
伝通院
善光寺坂から道なりに進むと、真新しい大きな門が見えてきました。
これが名高き伝通院、徳川将軍家ゆかりの寺として知られています。
慶長8年(1603)徳川家康が母・於大をこの地に葬り堂宇を建立、於大の法名「伝通院」にちなんで名づけられました。
境内には於大の方をはじめ、豊臣秀頼に嫁いだ千姫など、徳川家ゆかりの人物の墓所があり、見学ツアーも実施されています。
目の前にある立派な山門は平成24年(2012)に再建、本堂も昭和64年(1989)再建なのですが、今のご時世にこの規模のものを木造でとは、ちょっと感動ものです。
伝通院の境内奥にある休憩所で一息入れながら、足利子爵家上富坂やしきについておさらいしてみましょう。
足利子爵家「久堅町」屋敷
足利於菟麿は、1900年頃に本所区新小梅町1番地の水戸徳川侯爵家邸宅を出て、東京市本郷区駒込千駄木林町21番地に屋敷を構えたのは前にみたところです。(第6回「子爵足利於菟丸」参照)
「その家は父と母が結婚して初めて持った家であったが、(中略)何でも小間ばかりの使いにくい家と云うので三五、六年ごろ、当時の小石川区久堅町に引っ越した」(「わが幼年時代」)と記すように、長男の惇氏が生まれてすぐに東京市小石川区上富坂町30番地へ引っ越しました。
不思議なことに、於菟丸や彰子と尚麿は、上富坂の屋敷を、理由はわかりませんがこの場所にあった屋敷を「久堅町の家」と呼んで懐かしんでいるのです。(第8回「若き惇麿の悩み」参照)
そこで、ここでは於菟丸の子供たちに倣って、上富坂の屋敷を「久堅町の家」呼ぶことにし、子供の頃の惇氏は幼名の惇麿と記すことにしたいと思います。
惇麿・彰子・尚麿
さて、惇氏によると、この「久堅町の家」は平屋の一般的な住宅だったようですが、書生や女中がいる豊かな暮らしでした。
この家で明治35年10月3日に長女彰子、明治37年1月13日に二男尚麿、明治38年11月11日に二女恆子が生まれて、足利家もにぎやかになっています。
『人事興信録 2版』人事興信所編(人事興信所、1911明治41年6月刊)に「東京市小石川区上富坂町30番地」とあるこの家は、確かに電話もひかれていることから見ても経済的余裕がある証拠とみてよいでしょう。
東から望む 西から望む
「久堅町の家」の記憶
それでは惇氏「わが幼少時代」から、この家に関する記述を拾ってみましょう。
惇氏の「久堅町の家」で最も古い記憶は、日露戦争の戦勝記念提灯行列や大通りの凱旋門だったといいますから、明治38年(1905)夏ごろ、惇麿4歳のときでしょうか。
伝通院近くの砂糖屋の「福徳豆」、六角坂のことらしき大曲坂の子供向け駄菓子屋「紅屋」にはよく通ったのは、いかにも子供らしいところ。
また、彰子が八百屋でしくじって、店の娘さんの下町風べべを着て人力車で帰ってきたという思い出も、光景が目に浮かぶようです。
そして、父・於菟丸が、家で遅くまで宝生流の謡曲や幸流の小鼓の会合を座敷で開いたりしました。
子供たちが小鼓の真似をして、番茶の罐を小鼓や大革に見立てて、肩に載せたり小脇に抱えながらヤオーヤオーと掛け声をかけて遊んだ楽しい記憶も忘れがたいものなのでしょう。
また、家で飼っていたメジロが死んで、女中さんが庭の片隅に作ったその墓を、毎日拝みに行くなんてこともあったそうです。
惇麿はよく女中さんと買い物に行ったのですが、いつも掛け買いをするのを見ていたので、ある日一人で近所のお菓子屋に行って菓子を買い、「つけておいてください」とお金を払わなかったところ、店の女主人に「お金を持っていらっしゃい」とぴしりと言われた、なんていう赤っ恥のエピソードも紹介されています。
惇麿、幼稚園時代
惇麿が女子師範の附属幼稚園に通ったのもこの時期のこと。
よその子と遊んだことがなかった惇麿は、大のはにかみ屋で幼稚園に行くのが大嫌いだったそうですが、教育家として有名な沢柳政太郎の息子と友達になった思い出も。
また、病弱だった惇麿や弟妹が病気の時は、伝通院近くにあった渡辺真医師の小児科病院に通ったそうです。
久堅町の家はランプでしたので、書生がランプのほや掃除を毎日していたといいます。
泥棒に入られる
もちろんよい思い出ばかりではなく、父・於菟丸が謡曲の会を開いた日の夜中に、泥棒に入られたこともあったというからびっくりです。
なんでもこの泥棒、夕方から縁の下に潜んで謡曲の囃子を聞きながら酒を飲んでいたといいますから、何とものんびりしたものですね。
「久堅町の家」焼失
こうして楽しかった惇麿たちの「久堅町の家」での暮らしは、突如終わりを迎えます。
明治39年(1906)3月、書生の放火により家は焼けてしまったのです。
彰子のお雛様も、惇麿と尚麿の五月人形もすっかり焼けてしまいました。
家族は近所の久邇宮御用係の坪井さん宅に一時避難したのですが、訪れた火事見舞の多くの人々の中には父・於菟丸の伯父にあたる徳川慶喜がいたそうです。
こうして惇氏が0歳から5歳の誕生日の少し前までの幼年期を暮らした「久堅町の家」は帰らぬものとなりました。(第8回「若き惇麿の悩み」参照)
このあと一旦東京を離れて、京都府愛宕郡下鴨村森本町24番地に移っています。(『最新華族名鑑 明治41年12月調』森惣之祐編(東華堂、1909))
この火災で経済的にダメージを受けた足利子爵家は、財政的に苦しい時代を迎えていくのですが、いくどか引っ越した先の西大久保で、豊かでなないにせよ、楽しい暮らしを送ることになります。
帰り道
さて、長い休憩になりました、それでは帰路につきましょう。
伝通院を出ようとすると、保育園児たちのお散歩の列が通せんぼ、私に手を振ってくれる園児たちを眺めていると、ふとこよなく伝通院を愛した永井荷風のことを思い出しました。
そう言えば、この先の安藤坂近くに永井荷風が幼少期を過ごした家があったな、とか、樋口一葉が小説を習った「萩の舎」跡もあったと思ったのですが、春日通に出て伝通院前交差点から眺めた安藤坂の急こう配と坂の長さに恐れをなして、またの機会とすることに。
それで春日通を東に進んで、ふたたび富坂、今度は下りなのですが、かつては市電が安藤坂をあえぎあえぎ登ったと思ったらすぐに富坂の下りだったのか、と妙に納得しているうちに、スタート地点の東京メトロ丸の内線・南北線 後楽園駅、都営地下鉄大江戸線・三田線 春日駅の6番出口に到着です。
坂ばかりの厳しいコースで約1,700m、2時間ほどで走破です。
途中でも触れましたが、永井荷風や幸田露伴、島木赤彦、徳田秋声など、多くの文人ゆかりの地ですし、近くの菊坂は樋口一葉終焉の地でもあります。
じつは伝通院近くに話に出てきた徳川慶喜の終焉の地など、見どころ満載ですので、私はまたの機会にゆっくり回ってみたいと思ったところです。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。
また、文中では敬称を略させていただいております。
引用文献など:
『最新華族名鑑 明治41年12月調』森惣之祐編(東華堂、1909)
『人事興信録 2版』人事興信所編(人事興信所、1911明治41年6月刊)
『角川日本地名大辞典 13 東京都』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)、
「わが幼年時代」足利惇氏/『足利惇氏著作集 第三巻 随想・思い出の記』足利惇氏(東海大学出版会、1988)
「三浦梧楼」『国史大辞典 第十三巻』国史大辞典編集委員会(吉川弘文館、1992)
文京区設置の案内板
富坂キリスト教センターHP、国立国会図書館HP・近代日本人の肖像
参考文献:
『人事興信録 3版(明治44年4月刊)皇室之部、皇族之部、い(ゐ)之部−の之部』人事興信所編(人事興信所、1911)
『東京の坂道-生きている江戸の歴史-』石川悌二(新人物往来社、1971)
『平成新修 旧華族家系大成』霞会館華族家系大成編輯委員会編(財団法人霞会館、1996)
「わが細く遥かなる道」足利惇氏/「惇兄のこと」遊上尚麿/「兄を偲ひて」森山彰子/「足利惇氏先生年譜」『足利惇氏著作集 第三巻 随想・思い出の記』足利惇氏(東海大学出版会、1988)
『華族総覧』千田稔(講談社、2009)
次回は、足利子爵家西大久保屋敷跡を歩いてみましょう。
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