足利惇麿の回天【維新の殿様・下野国喜連川藩(栃木県)足利(喜連川)家 ⑨】

前回は若き足利惇麿が、深い悩みの中でもがき苦しみ、ついに家を飛び出すまでを見てきました。

今回は、彼が師との出会いによって苦悩から抜け出す姿を見ていきたいと思います。

平戸・誓願寺時代

前回見たように、中学卒業のころ西大久保の実家を飛び出した惇麿は、長崎県平戸市の浄土宗誓願寺に入り、住職藤井真隆師のもとで仏道修行に専念します。

仏教とキリスト教が近在する平戸の環境で、「仏教とキリスト教とがどんな差異があるのか、それを知り度いという意欲が次第に心の中に起こってきた。自分は長男であったため、(中略)家と絶縁することは、当時の事情から社会的にも許されなかった。」(「わが遠く遥かな道」)

「英吉利商館跡」(『長崎県案内』長崎県編(長崎県水産会、1936)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「英吉利商館跡」『長崎県案内』長崎県編(長崎県水産会、1936)国立国会図書館デジタルコレクション 惇麿が修行していたころの平戸】

その時、足利子爵家は

いっぽうで妹の彰子は足利子爵家の様子を、こう証言しています。

「父はここを卒業後は工科に進む様申して居りましたが多感な青年の胸中は知る由もなく汚辱に充ちた此世には耐え難く思われたのでしょう。僧になるべく家出されました。そこは九州平戸の誓願寺で松浦家の菩提寺でした。両親の驚き仰天は今もありあり瞼に浮かびます。相続人が之ではお家の一大事とさすがの父も困りはて親戚に当たります水戸様にご相談に来られました。お屋敷は向島に在り又すぐ近くにお親しい松浦様のお住まいもありますので事情を申し上、お国元の誓願寺御住職にお願いし兄を御説得して下さいましたのでしょう。迎えの人を使わし、やっと京都迄戻られました。」(「兄を偲ひて」森山彰子)

榊教授登場

そしてなんと、この「迎えの人」というのが惇氏の人生を大きく変える運命の人となったのです。

「御親戚の方々は、寺にこもってしまった先生を連れ戻そうと努力されたが無駄であったらしい。当時、京都帝国大学では榊亮三郎博士が梵語・梵字学の講座を担当しておられた。足利先生のお母上の妹に当たる方が榊博士の夫人であられた。そこで、みんなで榊博士にお願いしたところ、博士みずから九州に下られ、先生を京都に連れ帰られた。」(「足利惇氏先生を偲ぶ」井本英一)

『解説梵語学〔正篇〕』(榊亮三郎(古義真言宗聯合大学、明治40年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【『解説梵語学〔正篇〕』(榊亮三郎(古義真言宗聯合大学、明治40年)国立国会図書館デジタルコレクション) 表紙 】

榊亮三郎とは

惇麿を平戸まで迎えに来た榊亮三郎とはどんな人なのでしょうか?

ここで、榊教授の御子息の証言を見てみましょう。

「父はご承知のとおり、世の中の平均から言えば奇人変人の部に属する。和歌山県人特有のネアカでありながら、癇癪持ちのお天気屋、虫の居所が悪いと何を言い出すかわからない。触らぬ神にたたりなしと敬遠されたのは無理からぬことと私も思う。それでいて実は大変な淋しがり屋、五十歳を過ぎる頃から心の中では後継者が見付からないことを非常に嘆いていた。」(「惇氏さんの思い出」榊米一郎)

ここで捕捉すると、榊亮三郎(1872~1946)は明治5年(1872)和歌山県生まれのサンスクリット語、当時の用語でいう梵字梵語の研究者です。

二度にわたってヨーロッパで学び、その帰途にインドに立ち寄って手写梵本を収拾・研究するなど、古代インド研究の科学的研究の草分け的存在といえる偉大な学者でした。

明治40年(1907)には請われて京都帝国大学教授に就任、そのあまりにも厳しい指導は、学内で知らぬものがなかったといいます。

梵字(『梵字悉曇章』〔部分〕享保19年(1734)序 国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【梵字『梵字悉曇章』〔部分〕享保19年(1734)序 国立国会図書館デジタルコレクション 】

師との出会い

榊教授の説得により、惇麿は平戸・誓願寺から東京に戻る決心をしました。

その時、惇麿が榊教授にいったい何を話したのか、気になるところですよね。

それについて惇氏の証言を見てみましょう。

「自分が仏教研究に熱意のあることを知られ、日本の仏教研究は漢訳の仏教書を基本としているが、それだけでは真の研究とは言えない、釈迦牟尼がどんな言葉で衆生に説教し、また、仏教思想を伝えたか、その原語について研究するのが先ず大切であるといわれ、成るほどと考え、その原語であるサンスクリット語を習得することに決心した。」

さらに榊教授は、惇麿に具体的な進路を示します。

「先生は、梵語習得の困難さについて述べられ、いきなり梵語文法に取りつくだけでは不可ない、それには、同じ古代語であるラテン語を学習すべきで、同志社には田中秀央君(京大の先生)が講師として出講しているから、その方について勉強すればよろしいといわれた。」(以上「わが細く遥かな道」)

また、サンスクリット語を学ぶきっかけについてこうも述べています。

「私が青年時代から抱いていた「お釈迦さまはどんな言葉を使って説教されたのであろうか」という単純な好奇心も手伝い、またわが国の坊さんたちが読誦されるあのぼう大な漢訳大蔵経典がもともとどんな言葉で書かれていたかを知りたい意欲にかられたことも事実である。」(「三十五年の梵語研究から -定年に思う」)

深い悩みの中で、尊敬できる人物と語らい、もともと興味があったことを手掛かりに、すすむべき道をはっきりと見出すことができた、ということでしょうか。

『大師の時代』(表紙)(榊亮三郎(宗祖降誕会本部、大正2年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【『大師の時代』(表紙)榊亮三郎(宗祖降誕会本部、大正2年)国立国会図書館デジタルコレクション  榊教授は、専門の梵字梵語学から古代インド、さらには仏教への造詣も深く、惇麿が相談するのにまさにうってつけの人物でした。】

榊教授の思い

暗闇の中で光明を見つけた惇麿、それに対して師となった榊亮三郎はどう思っていたのでしょうか。

ふたたび榊教授の御子息・米一郎の証言から。

後継者不在に悩んでいた榊教授は、「それだけにふとしたことがきっかけで、足利惇氏、岩瀬健司という二人の類まれな俊才にめぐり合ったとき、どれほど喜んだことか、不幸にして岩瀬さんは夭折、後に残った唯一の弟子、惇氏さんの成長にどれだけ望みを託したことか、専門はちがっても長年教師をして生きて来た私には、父の気持ちがいたい程分かるように思う。」(「惇氏さんの思い出」榊米一郎)と、東京大学で教授を長年務めた米一郎ならではの視点から父・亮三郎の心中を察しています。

そしてその後も、「まさに惇氏さんこそ学究として父の生き甲斐であったと言えるであろう。」とまで言いきっています。

榊亮三郎にとっても、惇麿との出会いはかけがえのないものだったのですね。

惇麿の帰還

東京へ帰った惇麿はこんな様子だったといいます。

「人生観の問題解決のため九州のお寺で修業中の足利さんがお念珠を左手にかけて白絣に小倉の袴、海水浴用の経木の帽子姿で忽然と来訪されました。心の整理もついたので京都で学業に専念するため帰ってきたとの決意を陳べられました。蔭乍ら心配していたのですがこの時は清々しく朗らかに見受けられて家中で喜びました。」(「足利惇麿さん」毛塚嘉平)

平戸での仏道修行と榊教授との対話でみごと悩みが吹っ切れた惇麿。

いよいよここから彼のめざましい活躍がはじまります。

同志社時代

まずは「年譜」によって足利惇麿のここからの人生をたどってみましょう。

「大正11年(1922)同志社大学予科入学、大正14年(1925)3月同志社大学予科卒業し、同文学部英文科入学」

「当時惇氏さんは紺絣の着物、木綿の袴に下駄履き」(「足利惇氏さんの思い出」富田佑)という惇麿は、専門の英語はもちろん、第二外国語のフランス語、さらにはドイツ語とラテン語を独学で習得、さらには師・榊博士からサンスクリット語の指導を受けています。

このすさまじい学習速度は、迷いがなくなったからこそなのかもしれません。

さらに榊博士の指導は、「剣の達人のように、いつ何どき打ち込まれるかも分からぬ、といった感を相手に与える先生でした。」「私自身、先生にたえず叩かれました。」(「感想」)と記しているように、厳しいうえに生徒への愛情が強すぎて時に手が出てしまう、といったものだったようです。

こうして困難なサンスクリット語を惇麿は驚くべき速度で習得、みごと師・榊教授の期待にこたえたのでした。

「昭和2年(1927)3月同志社大学文学部英文学科卒業、同年4月京都帝国大学文学部講師を拝命、梵語梵字学を教える」

こうして惇麿は、榊亮三郎教授の後継者となったのです。

「京都帝国大学」『京都』京都市編(京都市、1929)国立国会図書館デジタルコレクション) の画像。
【「京都帝国大学」『京都』京都市編(京都市、1929)国立国会図書館デジタルコレクション) 】

惇氏に改名

いっぽうで、昭和6年(1931)6月正五位に叙されると、昭和7年(1932)1月惇麿を惇氏に改名しました。

じつはこれも榊教授から勧められて、江戸時代までの伝統に回帰したのです。

ここにも惇氏の並々ならぬ決意を感じずにはおれません。

さて、今回は深い悩みを師・榊教授の導きで乗り越えて、学門に生涯をささげる決意をするまでを見てきました。

次回は、彼が偉大な学者へと成長する姿を見ていきたいと思います。

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