前回見たように、時雨は江戸の文化にどっぷりつかって成長します。
しかし祖母や母から「女に学問はいらない」と大好きな読書をきつく禁止されるつらい環境でもありました。
14歳になった明治26年(1893)、母の希望で池田候爵邸に行儀見習に出るも肋膜炎を患って帰宅、今度は佐佐木信綱の竹柏園に入門し、江戸文学の素養を身に着けます。
それからしばらく平穏な日々を過ごしますが、明治30年(1897)12月には、近所に住む鉄成金水橋家の次男信蔵と結婚させられて両国本町に引っ越します。
この結婚、地元の名士である長谷川家の名声を、くず鉄屋から成りあがった水橋家が利用するための政略結婚でした。
こうして時雨は、放蕩三昧の夫と、何かにつけて派手好きの水橋家となじめず、苦しい結婚生活を送ることになります。
案の定、明治33年(1900)には父深蔵が東京府の水道管をめぐる疑獄事件に巻き込まれて公職を退き隠居する事態となったのでした。
そして明治34年(1901)には夫が放蕩の末に勘当されて岩手県釜石市に逼塞、それでも夫は家に寄り付かなかったのですが、皮肉にもそこで時雨は初めて自分自身で何でもできる自由時間を手に入れたというから意外です。
ようやく自由を手にした時雨は、水橋康子の名で投稿した結果、「うづみ火」が特撰となって「女学世界」臨時増刊号の巻頭に掲載されたのです。
その後も長谷川康子などの名前で投稿を続けた結果、なんと次々と入賞することに!
こうして時雨は作家としての自信と賞金を手に入れて、明治37年(1904)には釜石を離れて上京し、父の住む京橋区新佃島西町(現在の中央区佃島)で父との同居をはじめます。
ついに、明治38年(1905)に一幕物の「海潮音」が「読売新聞」募集の懸賞脚本に入選して、時雨の劇作家としての歩みが始まりました。
翌明治40年(1907)には水橋信蔵と正式に協議離婚が成立、これを機に28歳で築地の女子語学校(現在の雙葉学園)初等科に入学、わずか半年間とはいえ学校生活を謳歌しました。
そして、明治41年(1908)には帝国義勇艦隊建設のための募集脚本に「覇王丸」が当選、「花王丸」と改題の上、六代目菊五郎、中村吉右衛門らによって歌舞伎座で上演されました。
さらに「海潮音」が新富座で上演、喜多村緑郎の当たり芸となって各地で上演されます。
ついに、明治44年(1911)には「さくら吹雪」が歌舞伎座で上演されると六代目菊五郎の当たり役となって劇作家としての地位が確立しました。
こうして史上初の女性歌舞伎作家として時雨の名は知れ渡ることになったのです。
広く世に知られるようになった時雨は、当時のグラビア雑誌的な読み物にも取り上げられるようになります。
『新らしき女』(X生(大正2年))では、下田歌子、与謝野晶子、長沼千恵子などとともに時代を代表する女性として取り上げられるほど。
そして翌明治45年(1912)には演劇雑誌「シバヰ」を作ったり、六代目菊五郎と7「舞踊研究会」を立ち上げたりと、劇作を次々と発表しながら活動の幅を大きく広げていきました。
その後、大正4年(1915)には『青鞜』に投稿、佃の家を処分して神奈川県生麦岸戸谷へと移ります。
心機一転、といったところでしょうか。
この後、三上於菟吉との関係がはじまり、大正8年(1919)からは事実婚関係(当時の言い方では内縁関係)の生活を牛込中町ではじめました。
それからは三上於菟吉を世に出すことに全力を傾ける日々が続いた末、努力の甲斐あって、よやく大正10年(1921)に於菟吉が文壇にデビュー、大正13年(1924)『白鬼』で文名を確立しました。
ついに史上初の歌舞伎作家として成功を収めた時雨。
しかし彼女の快進撃はそれにとどまりませんでした。
次回では、彼女の更なる活躍についてみていきたいと思います。
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