飯田ってどんな所?【維新の殿様・信濃国飯田藩(長野県)堀家③】

前回まで飯田に入るまでの堀家についてみてきました。

また、堀家入封までは次々と領主が変わっていく状況も確認したところです。

そこで今回は、信濃国と飯田という土地についてみておさらいしておきましょう。

伊那谷、昭和23年撮影空中写真(国土地理院Webより、USA-M1168-49〔部分〕) の画像。
【伊那谷は天竜川が作った河岸段丘が幾重にも広がっています。画面中央やや左に飯田市街、中央を上下に流れるのが天竜川。昭和23年撮影空中写真(国土地理院Webより、USA-M1168-49〔部分〕) 】

信濃は難治の国

「信濃は難治の国」と呼称されるほど、山国・信濃は統治の難しいところでした。(『長野県の歴史』)

伊那郡に限ってみても、三千メートル級の山々が連なる中央アルプスと南アルプスの間を、諏訪湖から流れ出る名高き急流・天竜川が形作ったのが伊那谷です。

険しい地形は道路の維持管理が大変なうえに、ここから流れる川はいずれも急流、天竜川と共に毎年のように氾濫を繰り返すのでした。

しかも平地はいずれも狭小で、安定して高い収穫が得られる広い平野はありませんから、統治のコストが極めて高くなるのは当然のことといえるでしょう。

これに加えて、前回みたとおり幕府の政策で領地はこま切れ、幕府領や旗本、他国の藩の飛び地がモザイク状に入り混じって、統治をさらに困難にしています。(第2回「飯田の町と堀家の歴史」参照)

ですので、飯田藩と同じ伊那谷に置かれた尾張藩の支藩・高須藩領の一万五千石については、年貢では領地経営が立ち行かないために、合力として米一万石・金四千両が供与されていたほどです。(『藩史大事典』)

飯田の産業

本来ならすぐにでも領地経営が立ち行か成りそうな飯田藩ですが、飯田にはこれを支える独自の産業がありました。

江戸時代初めには屋根材など榑木の輸出が最大の産業でしたが、これはすぐに廃れてしまいます。

これに代わって地域の主要産業となったのが、中馬です。

「中馬追ひの図」(『江戸時代に於ける南信濃』市村咸人(信濃郷土出版社、1934)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「中馬追ひの図」『江戸時代に於ける南信濃』市村咸人(信濃郷土出版社、1934)国立国会図書館デジタルコレクション 】

中馬とは、宿駅ごとに馬を代えながら荷物を運搬する駅馬に対して、同じ馬と馬方で目的地まで荷物を運搬するのが中馬、輸送期間は少し長くなるものの、費用は大幅に安く抑えられる利点があるために、大きく発展していきます。

じつはこの中馬、飯田が一大拠点となったのにはいくつかの理由がありました。

一つ目は、目的地の中ほどにある事です。

出発地となる東海道沿いの浜松、豊橋、岡崎、名古屋などに行く道の分岐点にあたっていますし、松本や岡谷などの終着地までの中ほどに当たるうえに、山一つ越えると木曽谷という立地も魅力的でした。

二つ目は、主要街道に接していないということです。

主要街道は、全国の大名が参勤交代で通行する時や、勅使や和宮東下などのイベントの時に通行止めとなる事が多く、「時は金なり」の運送業には大きな負担となったのです。

この点、飯田を通る伊那街道は脇往還ですので、街道沿いの藩の通交のみでした。

これに加えて、藩が小さいということも好条件といえるでしょう。

中馬は広域を移動しますので、藩が大きいとその力を使って圧力を加えてくることが多く、これに比べて小藩の場合はどうしても規制が弱く、その分自由度が高くなるのでした。

こうして中馬が発展した飯田では、関連する産業も発展したうえに、元結・水引などの独自産業も育ち、わずか二万石の藩なのに城下町は18町、寛政10年(1798)で商人や職人が5,816人というにぎわいでした。

江戸後期にはさらに商業が発展して中馬の出入りが多く、一日に「入馬千疋出馬千疋」と称されたのです。

「飯田市街展望」(『伊那案内』岩崎清美(西沢書店飯田支店、1928)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【「飯田市街展望」『伊那案内』岩崎清美(西沢書店飯田支店、1928)国立国会図書館デジタルコレクション 】

飯田藩の借金財政

ここで思い出してください。

飯田は統治コストが極めて高く、年貢だけでは足りない場所でした。

この不足分を穴埋めしたのが、飯田の商人たちだったのです。

その方法は「御定借」という制度、この名前は一般的に藩財政に不足が生じたときに商人たちから借りることを指します。

ところが飯田では独自のシステムになっていて、秋の収穫を担保に春に商人たちが金を貸し、藩は秋に年貢が入るとこれを現金化して、借りた額の一割増で商人たちに支払うというものでした。

この仕組みだと、藩財政は商人たちにすっかり握られてしまうのは自然のこと、もし幕府からお役目を命じられたりして臨時に金が必要となった場合は、追加で商人に借りるか臨時課税するしか方法がありません。

一例をあげると、寛延元年(1748)は一年間に82回にわたって総額4,600両を城下の商人から借り受けています。

飯田藩の年間支出はおよそ6,000両ですので、ほとんど借金で回していることになります。

そして当然の成り行きとして借金がかさんでいき、文化3年(1806)には累積債務が3,500両!(以上『物語藩史』)

太宰春台肖像(『先哲叢談 巻之二』原念斎、東条琴台(松田幸助ほか、1880)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【飯田藩を去った一人、太宰春台の肖像(『先哲叢談 巻之二』原念斎、東条琴台(松田幸助ほか、1880)国立国会図書館デジタルコレクション】

飯田藩の苦難

飯田藩の借金財政も、積もり積もって莫大な借り入れとなってしまうと、もう身動きが取れなくなってしまいました。

藩政改革するにも経費が必要ですが、変化を嫌う商人がお金を出すはずもありません。

ですので、改革を志す藩主は、どうしても増税からはじめるということになってしまい、このことがさらに歴代藩主を苦しめたのです。

このような状況ですので、飯田藩では藩主がリーダーシップを発揮するのが難しく、事あるごとに家臣が藩主に失望して辞めていくという状況が続きました。

その最大のものが、四代藩主親賢の時代に起こった牛之助騒動です。

騒動は、側用人牛之助と側室の不義を邪推した親賢が、牛之助を殺害したことに発します。

これを知った牛之助の母が、堀家に呪いの言葉を残して狂死したことから、二人の霊を弔うために毎年堀家の祈禱所・普門院で祈禱を行ったというものです。

この時にも堀宇右衛門ら五十人が藩を去っています。

また別の折ですが、親常の時代に藩を去った中に、儒者として名を挙げた太宰春台とその父太宰金左衛門がいました。

ここまで飯田藩が置かれた環境についてみてきました。

「天龍峡・姑射橋」(『伊那案内』岩崎清美(西沢書店飯田支店、1926)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【天竜川が作る壮大な渓谷美は飯田のシンボルです。「天龍峡・姑射橋」『伊那案内』岩崎清美(西沢書店飯田支店、1926)国立国会図書館デジタルコレクション】

この困難な状況の中で、歴代藩主たちはどのように藩を運営していったのでしょうか。

次回は、飯田に入封した堀親昌から幕末の親義まで、飯田藩の歴史を見ていきたいと思います。

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