≪最寄駅:JR総武線・都営地下鉄浅草線 浅草橋駅≫
飯田藩堀家は、安政2年以降、浅草向柳原に3,000坪の上屋敷、麻布新堀端邸に4,900坪の下屋敷を拝領しており、下屋敷に付随して54坪の抱屋敷をもっていました。
今回はこのうち、浅草向柳原町、現在の台東区浅草橋5丁目の飯田藩上屋敷と堀子爵浅草邸の跡地を訪ねてみたいと思います。(グーグルマップは飯田藩上屋敷と堀子爵浅草邸跡地の北隣、カトリック浅草教会を示しています。)
飯田藩上屋敷跡への道行
出発地はJR総武線浅草橋駅西出口です。
地下鉄都営浅草線からの場合、A3出口から地上に出て、JR総武線浅草橋駅東口を通り過ぎて、総武線高架に沿って西の秋葉原方面へ120mほど歩くと西口に到着します。
さて、JR浅草橋駅西口を北側に出ると、道向かいの少し左にラーメン屋さんのある角がありますので、そこを北上してください。
飲食店やビーズショップ、コンビニなどがならぶ道を進むと、小さな十字路に出てきます。
この辺りが伊勢国桑名藩松平子爵家の邸宅跡、少し北に行って東西に走るマロニエ通りが見えると、その道向こうは右手が出羽国久保田(秋田)藩佐竹侯爵家の邸宅跡でした。
このあたりは「明治東京全図」(明治4年測図、同9年発行)によると、大名華族の邸宅が建ち並ぶ場所だったのです。
マロニエ通りを渡ってから左の秋葉原方面に曲がると浅草橋5丁目交差点に出てきますが、交差点の北西部分が肥前国平戸藩松浦家邸跡で、これに沿って進みましょう。
信号を渡って進むと、右手が復興小学校の旧柳北小学校、その向こう側が日向国飫肥藩伊東家邸宅跡。
十字路を北に曲がってしばらく行くと、小さな公園・柳北公園が見えてきました。
この公園をはさんで南側が先ほど見た旧柳北小学校、北側が明治 年創立の都立忍岡高校です。
忍岡高校は大変特色のある学校で、大変ユニークな歴史を持っているのですが、そちらは別稿を用意してありますのでこちらをぜひご覧ください。(「忍祭 百年の歴史を受け継ぐ忍岡高校の文化祭」参照)
さて、柳北公園と旧柳北小学校、忍岡高校がかつての肥前国平戸藩上屋敷そして松浦家邸宅の敷地でした。
この屋敷内には蓬莱園という回遊式庭園があり、東京都の史蹟に指定されるほどの名園でした。
現在はその遺構が忍岡高校内に残るとともに、柳北公園横に碑が建てられています。
この蓬莱園跡の碑がある丁字路を東の秋葉原方面に進みましょう。
最初に出会う北に延びる細道が飯田藩上屋敷の東端、今歩いている道が屋敷の南端にあたります。
かつての飯田藩上屋敷の敷地はこの道から清洲橋通までの東西およそ100m、南北が後に見るカトリック浅草教会までのおよそ100mとなっています。
最初に見たのですが、飯田藩上屋敷は3,000坪だったのを覚えておられるでしょうか。
これが『東京市及接続郡部地籍台帳』によると、堀親篤は浅草区向柳原一丁目に3017.58坪の土地を保有しています。
つまり、飯田藩上屋敷と堀子爵浅草邸は、位置や規模が変わっていないのです。
それでは、柳北公園に戻って休憩がてら飯田藩上屋敷と堀子爵浅草邸についておさらいしておきましょう。
飯田藩上屋敷とは
飯田藩の上屋敷についてみると、元禄頃は数寄屋橋に2,909坪、宝永7年から文化3年までは呉服橋に2,931坪で、文化3年以降は浅草向柳原に移っています。(以上『江戸幕府大名家事典 上巻』)
この辺りが明治時代初めには華族の邸宅が並ぶ場所だったといったのを覚えておられるでしょうか?
じつは江戸時代もこの辺りには大名屋敷が多数置かれていて、主なものを揚げると、信濃飯田藩上屋敷のほか、出羽国久保田(秋田)藩上屋敷と下屋敷、越後国与板藩上屋敷、肥前国平戸藩上屋敷、対馬国厳原府中藩宗家上屋敷、出羽国庄内藩中屋敷と下屋敷、武蔵国忍藩下屋敷などがあったのです。
そして明治時代のはじめには、この場所に来るまでに伊勢国桑名藩松平家、出羽国久保田(秋田)藩佐竹家、越後国与板版井伊家、肥前国平戸藩松浦家、日向国飫肥藩伊東家の邸宅跡を見てきましたし、堀子爵浅草邸の道向こうには対馬国厳原藩宗家と、嵯峨実愛の邸宅が並んでいたほか、第一大学校医学校、現在の東京大学医学部もある静かな場所だったのです。
ちなみに、嵯峨実愛は討幕派公卿として名をはせた正親町三条実愛その人で、明治に入って嵯峨姓に改めたのでした。
堀子爵浅草邸
このように華族に大人気だったこの辺りですが、じつは廃藩置県時に飯田藩堀家には飯田藩下屋敷だった麻布新堀端邸の4,900坪が下賜されたのです。
しかし、当時の麻布新堀端はちょっと寂しいところだったようで、すぐさま向柳原の飯田藩上屋敷3,000坪との引替を願い出ています。
その結果、明治4年10月3日に願い出たとおり麻生新堀端賜邸上地となり、向柳原飯田藩旧邸宅引替て下賜されています。(「堀氏家譜」)(第5回「堀義広の活躍と飯田藩消滅」および第9回「飯田藩下屋敷跡を歩く」参照)
そして、堀親広はこのまま向柳原の旧上屋敷を本邸としたのです。
親広の跡を継いだ親篤は、俸禄を活かして資産を形成し、浅草区橋場や小石川区高田豊川町で土地を購入して家作を設けるとともに、浅草本邸も整備して屋敷地を北部分にまとめ、その他を家作に変えたのでした。
親篤が浅草区長を務めるなどして地元での信望が大いに高まった明治30年前後には、多くの人々が訪れていたのではないでしょうか。
しかし明治41年(1908)に千代田銀行取締役だった堀親篤が、銀行の任意解散に伴って莫大な負債を背負うこととなってからは、取り立てから逃れるために墓所である広尾の東江寺に逃げ込んで浅草邸を離れて以降、堀子爵家が向柳原に屋敷を構えることはありませんでした。(第6回「堀子爵家の栄光と転落」参照)
『東京市及接続郡部地籍台帳』によると、堀親篤は浅草区向柳原一丁目に3017.58坪の土地を保有しているのが確認できました。
『東京市及接続郡部地籍地図』でこの部分をみると、表通り沿いには酒屋や洋品店といった商店が並び、その奥には「高橋邸」と工場、そしてかつての堀子爵邸には「澤田邸」の記載が見られます。
ところが、大いににぎわった堀子爵家の浅草向柳原家作も、関東大震災では火災に見舞われて壊滅的な被害が出ます。
それでも堀子爵家は家作を何とか復興したのです。
訴訟と震災で規模は縮小したとはいえ、いまだに浅草邸跡に2,497坪(『東京市浅草区地籍台帳』)を保有していました。
小石川区高田豊川町に3,750坪(『東京市小石川区地籍台帳』)が震災の被害を受けなかったこともあって、家作の再建が出来たのでしょう。
昭和11年(1936)撮影の空中写真をみると、ぎっしりと家が建ち並んで多くの人々が暮らす下町となっているのがわかります。
しかし昭和20年(1945)3月、東京大空襲によって再び町は焼失してしまいました。
人々の不断の努力で町は復興していきますが、浅草の土地を手放した堀家が関わることはありませんでした。
飯田藩上屋敷・堀子爵家浅草邸の名残を探して
そろそろ散策に戻りましょう。
飯田藩上屋敷・堀子爵浅草邸の範囲は南北に長い3つの短冊形を、その真ん中やや北部分に路地が通って6つのブロックに分かれています。
いわゆる「下町的風景」が広がる街ですが、ここもまたマンションが広がり始めて様子が変貌しているところのようでした。
関東大震災と東京大空襲の影響か、残念ながら古い遺構は見当たりません。
カトリック浅草教会と殉教碑
しかし、敷地の北に回るとカトリック浅草教会が建っています。
現在はおしゃれな聖堂が建っていますが、その歴史は古く、明治10年(1877)に大原重実邸の敷地を購入して本多善右衛門が設立しました。(「カトリック浅草教会のクリスマス」参照)
この教会の裏手に回ると「殉教の碑」があります。
かつては狂気の敷地の少し北東を、関東大震災以前は三味線堀から流れ出た鳥越川が東に流れて隅田川に注いました。
この鳥越川の河原には江戸時代初めに刑場が置かれており、禁教を破ったキリシタン28名が慶長18年(1613)に鳥越川のほとりで処刑されたのです。
また同年に同じく鳥越川原で、大泥棒の向坂甚内が処刑されています。(「甚内神社 (中編) 神になった大盗賊」参照)
ちなみに、教会前の道を東へ200mほど行って北に曲がると、向坂甚内を祀る甚内神社がありますので、そこまで足を延ばしてみるのもよいでしょう。
鳥越神社のとんど焼き(1月) 鳥越神社の茅の輪くぐり(7月)
ほかにも近隣にはとんど焼きや茅の輪くぐりで名高い鳥越神社がありますので、こちらもぜひご覧ください。
再び散策に戻りましょう。
カトリック浅草教会から南に進むと、前に休憩した柳北公園に戻ってきました。
ここから南に300mほど進むとJR総武線の高架銭に当たり、ここを左に曲がって200mほどでスタート地点のJR総武線浅草橋駅東出口に戻ってきました。
今回のコースは平坦で歩きやすく、約1時間の快適な散策でした。
今回は浅草向柳原の飯田藩上屋敷と堀子爵浅草邸の跡地を訪ねました。
次回は飯田藩麻生新堀端下屋敷跡地を訪ねてみたいと思います。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。
また、文中では敬称を略させていただいております。
引用文献:
「明治東京全図」(明治4年測図、同9年発行)国立公文書館デジタルアーカイブ
『東京市及接続郡部地籍台帳』(東京市区調査会、1912)
『東京市及接続郡部地籍地図』(東京市区調査会、1912)
『東京市小石川区地籍台帳』内山模型製図社編(内山模型製図社出版部、1931)
『東京市浅草区地籍台帳』内山模型製図社編(内山模型製図社出版部、1934)「堀氏家譜」『蕗原拾葉 第十三輯』上伊那郡郡教育会編(上伊那郡郡教育会、1938)
『角川地名大辞典 17東京』「角川地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)
『江戸幕府大名家事典 上巻』小川恭一編(原書房、1992)
参考文献:
『浅草区誌 上巻』東京市浅草区編(文会堂書店、1914)
『江戸・東京 歴史の散歩道1 中央区・台東区・墨田区・江東区』街と暮らし社編(町と暮らし社、1999)
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