前回は、富江領分知で小藩の五島藩が、さらに厳しい財政状況に追い込まれるところをみてきました。
今回は、五島藩の財政危機を救った捕鯨業についてみてみましょう。
日本の捕鯨
日本では、古くは弥生時代から捕鯨を行っていたとされていますが、鯨組や突組と呼ばれる専業化した集団による捕鯨産業が出現したのは、戦国時代の終わりごろでした。
元亀年間(1570~73)に三河湾の内海のものが、師崎付近を漁場として、7~8艘の船で、銛による突取を行ったのが日本捕鯨業のはじめとする説が有力です。
この漁法で捕獲したのは動きが鈍く潜るのも浅いうえに死んでも浮いているなどの特徴を持つ背美鯨で、背美鯨より速く、深く潜る座頭鯨や長須鯨などは捕ることができませんでした。
捕鯨法の伝播
こうして伊勢湾で誕生した突取捕鯨法は、文禄元年(1592)には紀伊半島に、寛永元年(1624)には土佐に伝わったのです。
また、千葉県勝山には慶長年間には突取捕鯨法が伝わりましたが、専業化したのは明暦年間(1655~58)と考えられています。(以上『くじら取りの系譜』『日本捕鯨史』)
このように伊勢湾で誕生した日本の捕鯨業は、太平洋沿岸の主要な漁場に次々と伝播して定着していきました。
五島での捕鯨業のはじまり
いっぽう、平戸や五島を含む九州北西部の海域、西海漁場へ突取捕鯨法が伝わったのは元和2年(1616)に紀州の突組が進出したのが始まりと考えられています。(『くじら取りの系譜』)
いっぽうで、五島においてはそれよりも古い慶長2年(1597)有川村江口甚右衛門が紀州湯浅の庄助から突取捕鯨法を伝授されて有川湾で行ったことにはじまるとされて、その後もおもに紀州系の人物によって次々と鯨組がつくられていきました。
その後、五島列島北部の有川・魚目・宇久がすぐれた漁場となって、慶長10年ころには捕鯨組が10組にもなり、年間80頭を捕獲したと伝えられています。
最盛期に入った寛文年間(1661~72)には、有川側に10組、富江領の魚目側に7組もの鯨組が組織されて、鯨のみならず、イルカ・ブリ・マグロ・ヒウオ・カツオ・イワシも漁していました。(以上『物語藩史』)
鯨の効能
江戸時代に大槻準が編纂した『鯨史稿』には鯨の効用が詳しく書き込まれています。
「然レバ一ツモ棄ル所ナシ故ニ背美ノ大魚ヲ得レバ金千両ヲ得サレハコソ奥ノ俗モ七濵賑フト云フ」と記されています。(『鯨史稿』)
鯨の部位ごとの利用法の概要を記すと、肉は食用、歯は笄櫛など、毛(ヒゲ)は麻などの代用、尻尾は最高級食材、骨は肥料、軟骨は食品、筋は綿を打つ弓弦、脳漿は最良の清油、糞は薫香、皮は食用、血は薬、脂肪は精製油といった具合に、まさに捨てるところがありませんでした。(『日本捕鯨史話』)
こうして地域の重要な産業に発展した捕鯨業ですが、ここに前回みた富江分知問題が影を落とすことになります。
次回は、富江分知による境界紛争と、それを乗り越えて最盛期を迎える捕鯨業についてみていきましょう。
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