日本橋の開橋日
徳川家康は、日比谷入江を埋め立てて江戸の町をつくるなかで、平川(のちの日本橋川)の河口近くに橋を架けて、慶長8年(1603)4月14日に開橋しました。
この橋は、日本の中心になることを願って日本橋と名付けられたといいます。
その名のとおり、開橋の翌年には日本橋が街道の起点となって各地に一里塚が建設されると、次第ににぎわうようになっていきました。
街の象徴となった日本橋は、橋周辺の地名となり、江戸下町の中心となっていきます。
現在の橋は、明治元年架設の橋が老朽化したため、明治44年(1911)に架け替えられたものです。
その後、関東大震災や東京大空襲にも耐えて、国の重要文化財に指定されています。
現在、日本橋の上を通る高速道路の移設計画が進められていて、この美しい橋を遠望できる日もそう遠くないようです。
歌川国芳の没日
4月14日は、1861年(文化元年3月5日)に浮世絵師の歌川国芳がなくなった日です。
初代歌川豊国の門人となり、一勇斎、朝桜楼(ちょうおうろう)などと号しました。
怪奇趣味あふれる武者絵の新たな様式を完成させて、「武者絵の国芳」とたいそう評判をとります。
また、西洋風の表現を研究して取り入れた作品や、風刺画、戯画にも記載を発揮しました。
水野忠邦が主導した天保の改革では、浮世絵も弾圧を受けますが、国芳は風刺・批判によってこれに対抗し、禁令をかいくぐって作品を発表し続けています。
また、月岡芳年、落合芳幾、河鍋暁斎など多くの後進を育てたことでも有名です。
タイタニック号が氷山に衝突した日
4月14日は1912年夜に、ニューファンドランド島南方沖の大西洋上を処女航海していたイギリスの豪華客船・タイタニック号が濃霧のため氷山に衝突した日です。
タイタニック号は翌日未明に沈没し、乗客・乗員2,224人中1,513人あまりが死亡する大事故となりました。
タイタニック号は、総トン数4万6,328トンを誇る、規模や設備などで当時の画期的な豪華客船でした。
この悲劇は小説や映画などとなったのはもちろん、海難防止のための国際的な取り決めが作られるきっかけともなっています。
きのう(4月13日)
明日(4月15日)
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