鈴木貫太郎没日
4月17日は、昭和23年(1948)海軍大将で元首相の鈴木貫太郎がなくなった日です。
鈴木貫太郎は大阪府生まれ、海軍兵学校を経て明治31年(1898)海軍大学校を卒業しています。
日清戦争には水雷艇長として威海衛夜襲に参加。
その後、ドイツ駐在を経て軍艦「日進」「春日」を廻航して横須賀に帰着しました。
日露戦争では第4駆逐隊司令としてロシア艦隊の戦艦2隻を魚雷攻撃で撃沈するなど、大きな戦果を挙げています。
その後も「明石」「敷島」「筑波」艦長、海軍兵学校長などを歴任し、大正12年(1923)大将となり、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長にまでのぼりつめました。
ちなみに海軍次官時代には、シーメンス事件の処理にあたっています。
昭和4年(1929)には昭和天皇と皇太后の希望で予備役となって侍従長兼枢密院顧問官に就任して、昭和天皇の側近として信任を得ました。
その一方で、ロンドン海軍軍縮条約の調印に関して政府を支持したために国粋主義者や青年将校から「君側の奸」と目されることになりました。
昭和20年(1945)4月7日に78歳の高齢で首相に就任すると、8月9日に開かれた最高戦争指導会議でポツダム宣言受諾を主張する東郷茂徳外相と、徹底抗戦を主張する東条英機ら陸軍が激しく対立したのです。
これに対して本土決戦体制を強化して陸軍に配慮するいっぽうで、ソ連を仲介とする和平工作を進めるものの、工作は失敗。
そして軍部の圧力を受けて、ポツダム宣言を黙殺する謹話を発表します。
連合国側はこれをポツダム宣言の拒否ととらえて、アメリカ軍の広島・長崎への原爆投下やソ連の対日参戦の口実とされてしまいました。
その後、和平派に立って御前会議を開催し、天皇の裁断を求めると、天皇の権威を用いて徹底抗戦を主張する陸軍を抑えて降伏にこぎつけたのです。
8月15日、玉音放送でポツダム宣言を受諾すると、その責任を負って総辞職しました。
長く続いた戦争の終結を、最小限の混乱で実現させた功績は絶大といえるでしょう。
昭和23年(1948)肝臓がんで故郷の関宿で亡くなった後、遺体を荼毘にふすと、遺骨の中に二・二六事件で受けた銃弾が出てきたという逸話が残っています
鈴木貫太郎の生涯は、政治家とはどうあるべきかを我々に教えてくれているように思います。
下関条約締結日
4月17日は、明治28年(1895)に日清戦争の講和条約が調印された日です。
この条約は、下関で結ばれたことから下関条約(別名馬関条約)とも呼ばれています。
ここで講和までの流れをみてみましょう。
条約の調印社は、清国が講和全権大使李鴻章・李経芳、日本が全権大使伊藤博文・陸奥宗光で、下関春帆楼で交渉と調印が行われています。
最初に、3月20日、下関春帆楼で第1回会談が開かれました。
引き続き、両国全権で会談が継続されましたが、ここで思わぬ事態が発生します。
24日の第3回会談からの宿舎へ帰る途中に李鴻章が小山豊太郎に狙撃され負傷する事件が発生したのです。
これによって、日本側は列国からの干渉をおそれて休戦の申し出に応じ、手はじめに3月30日に休戦条約が締結されました。
その後、4月10日に交渉が再開されると、日本側は大幅に譲歩した最終案を提示、その結果合意に至り、4月17日に11条からなる日清講和条約、通称下関条約が締結されました。
その内容は、清国は朝鮮の独立を確認すること、庫平銀2億テールを賠償金の支払い、遼東半島・台湾・澎湖諸島を割譲、沙市・重慶・蘇州・杭州の新規開市、最恵国待遇などでした。
条約の批准交換は5月8日に行われましたが、その間に三国干渉が行われて遼東半島は清国に還付して、その代償として3,000万テールを得ることになったのです。
賠償金は、軍備や工業化の資金となるとともに、金本位制度へ移行する資金に充てられています。
下関条約は、日本を列強の一角にまで国際的地位を飛躍的に引き上げた画期的な条約となったのです。
きのう(4月16日)
明日(4月18日)
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