杉浦重剛が生まれた日
4月19日は、1855年(安政2年3月3日)、教育家・思想家の杉浦重剛が生まれた日です。
なお重剛は、正しくは「しげたけ」で「じゅうごう」は通称。
留学まで
重剛は、近江国膳所藩(現在の滋賀県大津市)の藩儒の家に生まれました。
わずか数え6歳で膳所藩の藩校・遵義堂への入学が許されると、高橋正功(坦堂)や黒田麹盧らに漢学と洋学を学んだあと、明治3年(1870)膳所藩の貢進生として大学南校(現在の東京大学)に入学します。
同期には、小村寿太郎や鳩山和夫(法学者・政治家。長男は首相となった鳩山一郎)、高平小五郎(外交官。「高平=ルート協定を結んだことで有名)などがいました。
なお、日露戦争で日本全権としてポーツマス条約を調印したことで名高い小村ですが、小村を外務卿・井上馨に紹介して外務省に入るきっかけを作ったのが杉浦だったといいます。
その後、明治9年(1876)から第2回文部省派遣留学生として「日本民法の父」穂積陳重らとイギリスに留学、じつは専攻は化学です。
文部官僚時代
明治13年(1880)に帰国すると、東大・文部省に奉職します。
明治15年(1882)には東大予備門(旧制第一高等学校、通称一高の前身。現在の東京大学教養学部)長、さらに文部省参事官兼専門学務局次長などを務めました。
なお、重剛が予備門長を務めていた時期に、夏目漱石や正岡子規が在籍しています。
その後辞職して明治21年(1888)に政教社創立に参加して、三宅雪嶺、志賀重昴らと雑誌『日本人』を創刊、国粋主義を唱道し、当時の日本社会に大きな影響を与えたのです。
しかし重剛は数ヶ月で退社すると、明治23年(1890)の第1回衆議院総選挙で当選しましたが、こちらも翌年に辞職し、青年の教育に専念するようになります。
教育者・杉浦重剛
文部省時代に東京英語学校(のちに日本中学校に改称、現在の日本学園)の設立にも参加し、明治16年(1883)自宅に家塾・称好塾を開設し、青年の教育に携わりました。
また、東京文学院設立に尽力したほか、国学院学監、東宮御学問所御用掛、東亜同文院長などを歴任しています。
このうち、東宮御学問所御用掛として東宮(のちの昭和天皇)に倫理学を進講したのです。
このように、重剛は国家の権威を高めることを目指して、多彩な言論・教育活動を展開したのち、大正13年(1924)に腎臓炎で亡くなりました。
杉浦重剛の育てた人たち
最後に、杉浦重剛の教えを受けた多彩な人材をみてみましょう。
巖谷小波(児童文学者)、
江見水蔭(小説家)、
大町桂月(詩人・評論家)、
古島一雄(ジャーナリスト・政治家)、
岩波茂雄(岩波書店創業者)、
横山大観(日本画家)、
佐佐木信綱(歌人・国文学者)、
鏑木清方(日本画家)、
高山樗牛(評論家・思想家)、
長谷川如是閑(ジャーナリスト)、
朝永三十郎(哲学者、ノーベル賞受賞者で物理学者・朝永振一郎の父)、
荻野久作(産婦人科医、「オギノ式避妊法」の創始者)、
丸山千里(丸山ワクチンの発明者)、
吉村公三郎(映画監督)、
小川琢治(地質学者・地理学者)、
吉田茂(外交官・総理大臣)、
河野一郎(政治家)
(この文章は、『松浦重剛先生小伝』史山猪狩又造(日本中学校同窓会出版部、1929)および『国史大辞典』関連項目を参考に執筆しました。)
きのう(4月18日)
明日(4月20日)
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