吉岡彌生の生まれた日
4月29日は、1871年(明治4年3月10日)、東京女医学校、現在の東京女子医科大学創立者の吉岡彌生が生まれた日です。
そこで、吉岡彌生の生涯と、東京女子医科大学の歴史をみてみましょう。
吉岡彌生
女性医師で教育家の吉岡彌生は、遠江国城東郡土方町、現在の静岡県掛川市で、漢方医・鷲山養斎の二女として生まれました。
明治22年(1889)、19歳のとき父の反対を押し切って医師を志して上京し、私立の医学校・済生学舎(現在の日本医科大学)に入学します。
明治25年(1892)内務省医術開業試験に合格し、女性として我が国27番目となる医術開業免許を取得しました。
明治28年(1895)にはドイツ留学を目指して再び上京すると、昼間は医師として勤務するかたわら、夜は私塾・東京至誠学院でドイツ語を学ぶ生活を送ります。
そしてその年の10月には東京至誠学院院長の吉岡荒太と結婚し、夫とともに東京至誠医院を開設しました。
東京女医学校
明治33年(1900)に、これまで女性にも門戸を開いていた済生学舎が女性の入学を突然拒否したことを知り、女性の地位向上のために女子の職業教育の必要性を痛感します。
そこで、みずから後進を教育する決意を固めて、飯田町3丁目の自宅兼医院の一室に日本ではじめての女子医療機関となる東京女医学校を創立しました。
このときの生徒はわずか4人で、そのうちの一人、竹内茂代が明治41年(1908)医術開業試験に合格したのを第1回の卒業生としました。
竹内は、開業医となるかたわら、婦人参政権獲得期成同盟会の役員を務め、昭和21年(1946)市川房江らとともに女性初の国会議員となっています。
東京女子医学専門学校
男尊女卑思想が根強く、医育統一論が叫ばれるなかで、明治45年(1912)には東京女子医学専門学校として認可を受け、大正9年(1920)には文部大臣の指定を受けて卒業と同時に医師免許が受けられるようになります。
こうして東京女子医学専門学校は、女医育成の中心的存在となりました。
いっぽう、彌生は雑誌『女医界』を創刊し、日本女医会会長となり、女医の存在を社会に認識させたのです。
こうして日本の女性を代表する存在となった彌生は、昭和12年(1937)に女性初の内閣教育審議会委員に任じられます。
戦時中
第二次世界大戦がはじまると、大日本婦人会顧問、大日本女子青年団理事長など婦人の団体活動に積極的に参加し、要職に就きました。
戦争を女性の社会進出の好機ととらえた彌生は、積極的に青年や女性に対して戦争協力を指導していきます。
戦後
終戦を迎えると、昭和22年(1947)第2次世界大戦中の活動により、公職および教職追放の処分を受けました。
昭和26年(1951)に公職追放・教職追放が解除とれて、東京女子医科大学学頭となります。
昭和34年(1959)5月22日に東京世田谷区の自宅において、88歳で亡くなりました。
東京女子医科大学
前項でみたように、東京女子医科大学は、明治33年(1900)に、吉岡彌生が麹町区飯田町3丁目の医院に東京女医学校を創立したことにはじまります。
明治36年(1903)には飯田町の東京至誠医院内から牛込区市ヶ谷河田町の陸軍獣医学校跡地に移転するとともに、明治41年(1908)には東京女医学校附属病院を併設しました。
さらに、明治45年(1912)には4年制の東京女子医学専門学校に昇格したのです。
終戦後は昭和22年(1947)東京女子医科大学となり、昭和27年(1952)医学部医学科を置く単科大学に移行して昭和33年(1958)には大学院博士課程を設置しています。
さらに、昭和52年(1997)医学部に加えて看護学部を設置して2学部構成となりました。
吉岡彌生の業績
ここまでみたように、吉岡彌生は女医養成に努めるいっぽう、近代女子医学教育を確立、女性の地位向上に向けた社会活動に尽力しました。
また、戦中戦後の言動を問題視する向きもありますが、女性一般に対する啓蒙書も多数執筆し、女子教育および社会教育の振興に果たした役割も少なくありません。
また、弥生の創設した東京女医学校は、日本で唯一、先進国でも数少ない女子の医科大学で、女子職業教育に新生面を切り開いた女子教育史上特筆すべきものです。
同時に、長年にわたって女医育成に果たした貢献は比類ないものといえるでしょう。
吉岡彌生の志は、東京女子医科大学を通じて今も引き継がれているのです。
きのう(4月27日)
明日(4月30日)
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