高村智恵子の生まれた日
5月20日は、明治19年(1886)に洋画家の高村智恵子が生まれた日です。
夫・光太郎の『智恵子抄』(1941)で知られる智恵子ですが、その生涯は短いながらも波乱に満ちたものでした。
そこで、高村智恵子の足跡をたどりながら、智恵子の生涯が我々に訴えかけてくるものをみてみましょう。
画家を目指して
高村智恵子は、明治19年(1886)福島県安達郡油井村、現在の二本松市で父・斎藤今朝吉と母・センの長女として生まれました。
明治26年(1893)8歳で町立油井小学校に入学、この年に父・今朝吉が長沼家と養子縁組をして、一家は長沼姓を名乗ることになります。
長沼家は祖父の代から続く安達郡随一の造り酒屋で清酒「花霞」を醸造し、多くの使用人を抱える資産家でした。
明治36年(1903)福島高等女学校を卒業し、卒業式では卒業生総代として答辞を読んでいます。
在学中から勉学だけでなく絵画にも関心を持っていた智恵子に教師や母も東京への進学をすすめたこともあって、同年4月に日本女子大学校普通予科に入学、二学期から選科生となりました。
学校では西洋画の授業を選択し、絵具箱とスケッチブックを持って校内を歩く姿は、一級上の平塚らいてうたちの印象に深く刻まれたといいます。
日本女子大学を卒業すると、両親の反対を押し切って画家への道を歩むことになりました。
明治40年(1907)4月から太平洋画研究所に通って、中村不折らに油絵を学びます。
高村光太郎との出会い
明治44年(1911)青鞜社に参加して『青鞜』創刊号の表紙絵を描き、田村俊子たちと知り合いました。
またこの年の12月には柳八重の紹介で高村光太郎と出会ったのです。
明治45年(1912)早稲田文学社主催装飾美術展覧会、大正元年(1912)第十回太平洋画会展などに出展して、「男も凌ぐ新しさ」(『読売新聞』6月5日付)と評されています。
大正3年(1914)恋愛関係にあった高村光太郎と、東京市本郷区駒込林町の光太郎アトリエで生活をはじめました。
結婚披露宴を行うものの、二人の希望で婚姻届けを提出しない、「事実婚」の形をとっています。
智恵子の発症
大正4年(1915)肋膜炎で入院すると、智恵子の健康は回復せず、創作活動と生活との矛盾から次第に行き詰まりをみせたのです。
昭和4年(1929)実家の長沼家が破産、昭和6年には智恵子が精神分裂症を発症、翌年に大量のアダリン(睡眠薬)を服用して自殺未遂をおこしました。
昭和9年(1934)8月23日、智恵子の病状を考慮して高村家に正式に入籍。
そして昭和12年(1937)頃から作業療法として勧められた紙絵の制作をはじめ、わずか1年ほどの間に千数百点の紙絵を創作したのです。
昭和13年(1938)粟粒性肺結核を併発して10月5日、入院先のゼームス坂病院で死去、享年53歳でした。
『智恵子抄』
昭和16年(1941)夫の光太郎が詩集『智恵子抄』(竜星閣)を刊行すると、戦争に突き進む中なかでも13刷を重ねる驚異的な売れ行きを示しました。
また、戦後も映画やラジオ、テレビドラマなどさまざまな形で捜索の素材となっています。
戦中戦後を通じて、多くの人々が『智恵子抄』からは、光太郎と智恵子の深く美しい愛情に感動を受け続け、二人の愛情物語はもはや伝説といえるかもしれません。
智恵子を精神的に追い込んだもの
ところで、光太郎の詩から、智恵子は光太郎との愛に生きる童女のように純粋な女性のイメージが広がっていますが、実際は自我の確立した強い意志を持つ女性でした。
そのような智恵子を狂気へと走らせた原因は何だったのでしょうか。
それについては、家事によって自身の制作が制約を受けたため、夫の光太郎が彫刻と詩作で成功するのを隣でみて自身に落胆したためなど、さまざまな要因があげられています。
もちろん、これらが複合した結果でしょうが、私が注目するのは真壁仁の「毒親説」です。
智恵子の母・センは、きわめて口やかましく、しじゅう叱言ばかり言う人で、なかでも長男啓助の嫁に厳しくあたりました。
このために啓助は二度も離婚に追い込まれ、三度目でヤケになって放蕩に走り、長沼家を破産に追い込んだうえ、夫婦で東京へ出奔、昭和10年秋に悲惨な死を遂げたのです。
こうして長男を転落させ、長沼家が傾いても、母は毎晩人力車で二本松の街に繰り出すような人物でした。
また母は、二男六女の兄弟の中でも長女のチエ(智恵子の戸籍名)を盲目的に愛しました。
このことは、母が原因となって家が崩壊していく責任を、智恵子に自覚させることになったのです。
そんな中、母が上京して中野に住むものの、責任感の強かった智恵子は、このことを光太郎には秘密にし、没落した長沼家を背負って戦い抜く悲壮な決意をするまでに追い込まれました。
その後、妹の負債の処理に駆け回るなどの奮闘もむなしく、長沼家は離散に近い状態となり、ついには智恵子を狂気に追い込んだのです。
ちなみに、智恵子の没後も、長沼家関係者を光太郎が死ぬまで扶養し続けました。
「毒親」は一家の幸せを破壊するだけでなく、子どもたちの未来も奪っていくのです。
(この文章では、敬称を略させていただきました。また、『智恵子抄』高村光太郎(竜星閣、1941)、「高村智恵子の一生」真壁仁/「智恵子様のこと」秋広あさ/「高村智恵子さんの印象」平塚らいてう『高村光太郎と智恵子』草野心平 編(筑摩書房、1959)、『あの女性がいた東京の街』川口明子(1997、芙容書房出版)、『智恵子 その愛と美』北川太一 編(二玄社、1997)、『智恵子相聞』北川太一(蒼史社、2004)および『日本女性史人名辞典』『明治時代史大辞典』の関連事項を引用・参考に執筆しています。)
きのう(5月19日)
明日(5月21日)
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