5月27日は、明治元年(1868)に海軍中佐広瀬武夫が生まれた日です。
そこで、広瀬武夫の生涯を振り返って現代へのメッセージを探ってみましょう。
海軍士官へ
広瀬武夫は明治元年、豊後国直入郡竹田町の通称茶屋ノ辻、現在の大分県竹田市竹田で父・重武、母・登久子の二男として生まれました。
父の重武は、豊後岡藩士で、維新後は大阪・飛騨高山・岐阜・天草などの裁判官を歴任し、兄・勝比古は海軍兵学校を卒業して海軍少将まで務めた人物です。
武夫は、父の転任に従って、竹田、飛騨高山で学んだあと、明治16年(1883)10月に上京して攻玉社に入り、明治18年(1895)海軍兵学校に進みますが、在学中に足の骨膜炎となり、卒業時の席次は80人中64番でした。
そして明治22年(1889)4月に海軍兵学校を卒業すると、海軍少尉候補生に任官し、練習艦比叡に乗艦して、サモア・フィジー・グアムを巡行する遠洋航海を経験しました。
明治24年(1891)に海軍少尉に任官、翌年6月にはコルベット艦筑波の分隊士に転出し、瀬戸内の測量などに従事します。
明治26年(1893)4月に水雷術練習所に入り、10月には同期23人中主席で卒業。
日清戦争では当初、運送艦門司丸の監督に従事して後方の任務に就いたのち、戦艦扶桑の航海士に任命されて旅順港要塞の砲撃に参加しました。
その後、海軍大尉に昇進し、第二号水雷艇長に任じられ、明治29年(1896)4月には小砲艦磐城の航海長となりました。
ロシア留学
明治30年(1897)6月、軍局長の山本権兵衛の抜擢により、ロシア留学生に選ばれて、ロシア海軍研究所のみならずイギリス・フランス・ドイツの巡視を行い、留学中の明治34年(1901)9月に海軍少佐に昇進します。
そして明治35年(1902)留学を終えて帰国しますが、この時にイルクーツクから橇に乗ってシベリアを横断し、この壮挙で一躍勇名を馳せました。
帰国すると、この年の4月、戦艦朝日の水雷長に任じられます。
日露戦争開戦
日露戦争の開戦により、明治37年(1904)2月6日に朝日は第一艦隊の二番艦として佐世保を出撃、9日には旅順港外でロシア旅順艦隊との艦隊戦を行うものの、これを取り逃がしてしまいます。
そこで、ロシア旅順艦隊が廻航中のバルチック艦隊と連動するのを避けるため、日本帝国海軍は旅順港閉塞作戦、つまり港に入り口に船を沈めてふさぐ作戦を計画し、広瀬がこの作戦に参加することになったのです。
旅順口閉塞作戦
こうして2月24日未明に行われた海軍中佐有馬良橘を総指揮官の第1回閉塞作戦では、5隻の船がロシア軍の猛烈な砲火をくぐって旅順港口に侵入、広瀬の指揮する二番船報国丸はじめ全艦が自沈に成功するものの、閉塞に失敗しました。
さらに3月27日には再び海軍中佐有馬良橘を総指揮官に、第2回閉塞作戦を敢行、千代丸、福井丸、弥彦丸、米山丸の4隻が出撃します。
さらに3月27日には再び海軍中佐有馬良橘を総指揮官に、第2回閉塞作戦を敢行、千代丸、福井丸、弥彦丸、米山丸の4隻が出撃します。
4隻の閉塞船はロシア軍の砲台と哨戒艇からの猛攻を受けつつ旅順港口に侵入し、先頭の千代丸は黄金山下に投錨して爆沈。
二番船福井丸はさらに海岸に迫って千代丸前方の投錨地点で駆逐艦からの水雷攻撃を受けて沈没、三番船弥彦丸は福井丸の左側で爆沈。
四番船米山丸はロシア駆逐艦の船尾に衝突、魚雷攻撃を受けて爆沈したのです。
広瀬は、自爆後に乗員を短艇に移して人員を点呼したところ、杉野孫七上等兵の姿が見合ないことに気づいて、敵の猛攻の中、3度にわたって単身船内を捜索します。
杉野上等兵は見つからず、舟が甲板まで沈んだため、やむなく退去して短艇に移って沖合に向かったところ、ロシア軍哨戒艇に発見されて集中砲火を浴びるなか、ついに広瀬は被弾して死亡、時に広瀬37歳でした。
この作戦では、戦死者は広瀬を含む4名、負傷者は士官3人と下士卒6人のあわせて9人で、そのほかの参加者は無事に収容されました。
前列の兵士が持っている小箱の右に杉野上等兵の遺髪、左が広瀬中佐の肉片。広瀬は被弾して死亡後に体が海に落ちたので、船内に残った肉片を桐箱に収めたのでした。】
「軍神」誕生
広瀬の死後に中佐に昇進、その葬儀も盛大に行われて、日露戦争の戦況とともに、新聞各社が盛んに報道しました。
こうして、広瀬の勇猛果敢な死は、広瀬のサムライ的人格も相まって、国民が熱狂的支持する国民的英雄となったのです。
そして戦死直後から広瀬の神格化がはじまり、東京神田・万世橋駅前には募金により巨大な銅像が建立され、広瀬は最初の「軍神」となりました。
すると、海軍もその動きに乗じて広瀬を「軍神」として祀り上げて国威発揚に利用し、国定国語教科書に広瀬を題材とした唱歌を掲載するなど軍国主義を普及する役割を担っていったのです。
広瀬武夫の人物像
こうしてみると、広瀬はサムライ的教養を基盤に、科学的知識と技術、さらにある種の文才を兼ね備えた、まさに明治時代を代表する軍人といえます。
そのうえ、強靭な心身と、部下を思いやる心を持った「理想的な男性」とされましたし、まさに彼の人柄があったからこそ「軍神」が誕生したといえるでしょう。
しかしそのいっぽうで、西洋事情にも明るく、ロシア国内に多くに知人を持つ、まさに対ロシアのプロフェッショナルでもありました。
たしかに広瀬は困難な旅順口閉塞作戦に最適な人物なのですが、戦争が終わると、すぐにでも必要となる人物だったのも事実でしょう。
私はどうしてもそこに、日本のプロフェッショナルを軽視する風潮のはじまりをみてしまうのです。
(この文章は、『軍神広瀬中佐詳伝』大分県教育会 編(金港堂書籍、1905)、『軍神-近代日本が生んだ「英雄」たちの軌跡―』山室建徳(中央公論新社、2007)および『国史大辞典』『日本人名大事典』『明治時代史大事典』の関連項目を参考に執筆しました。)
きのう(5月26日)
明日(5月28日)
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