東大安田講堂の建設が決まった日
5月6日は、大正10年(1921)に東京大学大講堂、通称安田講堂の建設が決まった日です。
そこで、安田講堂建設までの道のりをみてみましょう。
大講堂建設問題
東京大学は、明治10年(1877)開成学校と医学校が合併して日本最初の官立大学として誕生したあと、明治18年(1885)には4学部を合併、明治20年(1897)には帝国大学令により東京帝国大学へと着実に発展してきました。
それにともなって学部数や生徒数も増加するとともに、施設も次々に拡充されていきましたが、卒業式などの式典を行う大講堂がなかったのです。
そんななか、明治26年(1893)に浜尾新が総長に就任すると、大講堂の建設を計画しますが、予算などの問題から政府がこれを認めることはありませんでした。
以後、東京帝国大学は大講堂のないままで、問題は放置されていたのです。
安田善次郎の寄附表明
ところが、大正10年(1921)5月6日、安田財閥の創始者・安田善次郎が、文学部教授村上専精を介して総長・古在由直と会見し、大講堂建設費100万円の寄付を申し出たのです。
大学は6月の評議会で寄附の受け入れを決めると、敷地を法学部東側地区に決定するとともに、工学部教授の塚本靖と内田祥三に設計調査を委嘱することにしたのです。
塚本と内田は、さっそく6月末から建設予定地の測量と移転が必要となる建物の調査に着手しました。
安田善次郎暗殺事件
ところが、大正10年(1921)9月28日、大磯の別邸で安田善次郎が国粋主義者団体メンバーの朝日平吾に暗殺されるというショッキングな事件が発生します。
この事件により工事継続が危ぶまれましたが、安田家は事業の継続を決定して事なきを得たのです。
12月に内田は設計の概要と経費概算調書を完成さました。
そして翌年3月には卒業生の岸田日出刀がデザイン担当技師として加わり、実施計画を進めることになります。
関東大震災
およそ1年間の準備期間を経て、大正12年(1923)2月20日に地鎮祭を行った後、4月から基礎工事を開始します。
ところが、9月1日に関東大震災が発生、基礎工事の一部が破損してしまったのです。
早くも翌大正13年(1924)4月から工事が再開されると、安田財閥から直接の被害額5万円が追加寄附されています。
工事は順調に進み、10月25日に上棟式を実施、翌大正14年(1925)7月6日に竣工したのです。
内田ゴシック
じつは、関東大震災は、内田の評価を激変させていました。
内田は東京帝大を卒業後、三菱に就職したのちに大学院に戻った経歴もあって、評価はあまり高くありませんでした。
このとき、内田は東大ではじめての設計となる工学部二号館が建設中でした。
完成間近だったこの工学部二号館が、大震災でもほとんど被害がなかったことから、内田の評価はうなぎ登りとなったのです。
この実績が認められて、内田は東京帝国大学総長古在由直のもと、営繕課長を兼任することになって、震災復興計画を一手に任せられました。
こうして、東大校内は、内田が得意とした重厚な建築様式、通称「内田ゴシック」で統一されることになり、安田講堂は復興を象徴する存在となったのです。
安田講堂の秘密
じつは安田善次郎が、文学部教授村上専精に寄付を申し出たのは、安田が信奉する仏教哲学の研究生への奨学資金でした。
ところがこのとき、東大に大講堂がないことを知らされたのです。
当時は東大の卒業式に天皇陛下が来臨し、優等生へ銀時計恩賜が行われていましたので、大講堂がないうえに、天皇陛下の休息所・便殿もない状況にありました。
これを憂いた安田は、匿名を条件に大講堂建設費100万円の寄付を申し出ます。
ところが、卒業式と銀時計恩賜は文部省の方針により、大正元年(1912)に廃止されていましたので、すでにその必要性は消滅していたというから驚きです。
結果として、安田講堂のはじめての使用は、大正14年(1925)8月28日の総長選挙であり、その翌日には総長菊池大麓の葬儀会場となったのでした。
しかし、昭和3年(1928)から卒業式が再開されると、安田講堂が会場となったのはいうまでもありません。
東大安田講堂事件を乗り越えて
その後、昭和43年(1968)の東大紛争では全学共闘会議によって占拠される東大安田講堂事件が発生してしばらく閉鎖されていました。
その後、旧安田財閥ゆかりの企業からの寄付もあって大改修を実施、平成26年(2014)には耐震改修を実施して、現在も卒業式などで利用されています。
また、平成8年(1996)には国の登録有形文化財への登録を果たし、東京大学のシンボルとして親しまれています。
(この文章は、『東京大学本郷キャンパス 140年の歴史をたどる』東京大学キャンパス計画室 編(東京大学出版会2018)、『東京の近代建築 Ⅱ 23区東部・下町』小林一郎(吉川弘文館2014)、『文京区の歴史』竹内誠ほか(名著出版、1983)、東京大学Webサイトおよび『国史大辞典』関連項目を参考に執筆しました。)
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