6月26日は、昭和9年(1934)に東洋史学者の内藤虎次郎(湖南)が亡くなった日です。
そこで、内藤の多岐にわたる業績をみてみましょう。
略歴
内藤虎次郎(ないとう とらじろう)は、慶応2年8月17日(1866年9月25日)に陸奥国鹿角郡毛馬内村、現在の秋田県鹿角市十和田で南部藩に仕える武士の家に父・調一、母・容子のあいだに生まれました。
字は炳卿(へいけい)、湖南と号し、黒頭尊者の別号もつかっています。
祖父・仙蔵、父・調一は学問を好み、内藤もこの気風を受け継いで育ったのです。
秋田師範学校を卒業して小学校の先生となりましたが、上京して大内青巒が主宰する『明教新誌』の記者となりました。
その後、『三河新聞』主筆、雑誌『日本人』記者、『大阪朝日新聞』論説執筆、『台湾日報』主筆などで活躍し、中国問題の論客として注目されるようになります。
明治35年(1902)からは、たびたび視察調査に出て、その中で満州において満蒙文の大蔵経を発見するなどの学術的業績をあげました。
これが評価されて、明治40年(1907)京都帝国大学文科大学東洋史学第一講座講師となると、明治42年には教授に昇進、翌年には文学博士の学位を授与されました。
大正15年(1926)帝国学士院会員となり、大学を定年退官します。
唐宋変革論
内藤は、根本史料の発見蒐集につとめるとともに、該博な知見をもとに、多くの独創的ですぐれた著作を残しています。
中国史では、これまで唐と宋をあわせて一つの時代とみるのが通例でしたが、内藤は二つの王朝では社会が大きく変わっていることから、宋以降を近世とする時代区分を提唱しました。
また、明清時代の満州についての研究は、大きな業績といえるでしょう。
また、日本史にも造詣が深く、経学、文学にも通じていたうえに、漢詩文と書でも優れていたといいます。
昭和9年(1934)6月26日に死去、享年69歳でした。
邪馬台国論争
内藤の業績で忘れてはいけないのが、邪馬台国論争です。
中国の歴史書『魏志』に書かれた「邪馬台国」の所在地をめぐる論争ですが、古くは江戸時代から行われていました。
明治に至るまで、学会はおおむね九州説にまとまる状況でしたが、明治43年(1910)に畿内説を唱える内藤と、九州説を唱える白鳥庫吉との論戦がはじまります。
その後、橋本増吉、笠井新也、富岡謙蔵、梅原末治など、邪馬台国にかかわる論争は発展し、当時の社会までも目が向けられるようになるなど、大きく広がりをみせました。
この論争はあくまで学会内のものでしたが、戦後は広く国民的関心を集めるようになって、古代史ブームをけん引することになったのは、ご存じの方も多いのではないでしょうか。
現在も論争はつづき、結論を得るには至っていません。
内藤湖南の人脈
内藤は、ジャーナリスト時代に知古を得た大内青鸞、三宅雪嶺、内村鑑三など、幅広い教育・言論人と交友を持っていました。
また、内藤を京都帝国大学に招聘した狩野亨吉、邪馬台国論争で対決した白鳥庫吉など、学界にも知古が多いのはいうまでもありません。
なお、内藤の成果を受け継いだ桑原隲蔵、羽田亨や、狩野直喜、宮崎市定、田村実造など、数多くの東洋学者が京都大学から育ち、京都学派とよばれるまでに発展しています。
このような内藤ですが、意外な人物ともつながりがありました。
大阪の銅鉄商で、『大阪日日新聞』の出資者だった勝木忠兵衛が、圧力により新聞社が破綻に追い込まれた際に、内藤から勝木に見舞が贈られています。
勝木がこれを大いに喜び励みとしたとのことで、二人の縁は、これよりも前からつながっていたのでしょう。
内藤湖南の転機
ジャーナリストとして、また研究者としても華々しい活躍をつづけた内藤ですが、じつは心が折れそうになったことがありました。
内藤はジャーナリストとして活躍する一方、国学を中心とする彼の蔵書は、希少な本を多数含むすぐれたものとして知られていたのです。
ところが、明治31年(1899)、これまで内藤が精魂込めて集めた膨大な蔵書が、火事によって焼失してしまいました。
ここで、気落ちした内藤に、唐本の収集や、中国史への転進を進めたのが歴史学者の那珂通世でした。
同じ南部藩領出身ということもあり、二人は古くからの親友だったといいます。
那珂は、このころ東京帝国大学文科大学で講師を務めるかたわら、日本や朝鮮、中国の実証的な歴史研究を進めて、ついに「東洋史」の概念を産み出す大きな業績を上げています。
那珂は内藤の研究を認めたうえ、落ち込んだ内藤を励まし続けて、その研究を助けたのです。
この那珂が、明治41年(1908)に心臓発作により57歳で急逝すると、内藤がこれを大いに嘆き悲しんだと伝えられています。
ちなみに、邪馬台国論争で内藤と論を戦わせた白鳥庫吉は、那珂の教え子でした。
那珂の業績を受け継いだのが白鳥ですので、内藤からみると、邪馬台国論争では亡くなった那珂への恩返しだったのかもしれません。
(この文章は、『西羽之現代人』古山省吾 編(良羽研究所、大正4年)、『留飲を下ぐ』丸山幹治(言海書房、1935)および『国史大辞典』『明治時代史大辞典』『日本史大事典』の関連項目を参考に執筆しました。)
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