西田幾多郎に学ぶ時代の圧力の恐怖

哲学者・西田幾多郎が亡くなった日

6月7日は、昭和20年(1945)に哲学者の西田幾多郎が亡くなった日です。

西田や代表作『善の研究』は日本史の教科書に必ず載っていますし、西田が歩きながら思索にふけったという京都の「哲学の道」は大人気の観光名所となっています。

そのいっぽうで「哲学」って難しくてわかりませんよね。

そこで、まずは西田幾多郎の足跡から、その人物像に迫ってみましょう。

高等学校教授時代まで

西田幾太郎は、明治3年(1870)5月19日、西田得登の長男として、加賀国河北郡宇ノ気村字森で生まれました。

石川県師範学校、石川県専門学校付属初等中学校を経て、明治20年(1887)9月に第四高等中学校予科に編入学し、翌明治21年(1888)9月から同校第一部に進学しました。

この時の同級生に、藤岡作太郎、鈴木貞太郎(大拙)、金田(山本)良吉らがいて、上級生に松本文三郎、木村栄らがいました。

鈴木大拙(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【鈴木大拙(出典:近代日本人の肖像)】

明治23年(1890)4月に同校を自主退学、翌明治24(1891)年9月から東京帝国大学文科大学哲学科選科に入学して、井上哲次郎やブッセ、ケーベルトらに学びました。

明治27年(1894)7月に卒業すると、翌明治28年(1895)4月石川県能登尋常中学校七尾分校の教諭を務めます。

その後は、明治29年(1896)4月に第四高等学校講師となったあと、山口高等学校教授を経て第四高等学校教授となり、約10年間在籍しました。

いっぽう、明治30年(1897)ごろから熱心に打坐参禅し、明治36年(1903)8月には無字の公案を透過しています。

田邊元(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【田邊元(出典:近代日本人の肖像) 西田が京大助教授となったときの哲学科教授。西田とともに多くの後進を育てて、「京都学派」と呼ばれる隆盛期を作り上げました。】

京都帝国大学時代

明治42年(1909)7月学習院教授となり、明治43年(1910)8月京都帝国大学文科大学助教授(倫理学担当)に任ぜられました。

明治44年(1911)最初の著作となる『善の研究』を刊行すると、ようやく哲学会のみならず、思想界で広く注目されるようになったのです。

大正2年(1913)8月、京都帝国大学教授に就任し、12月には文学博士の学位を受けます。

昭和2年(1927)『働く者から見るものへ』において「場」の論理に到達、このころから「西田哲学」の呼び名が一般化したのです。

また、西田自身も自己の思想の東洋的な性格を明確に自覚するようになっていきました。

『善の研究』(西田幾多郎(弘道館、1911)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【『善の研究』初版本】

昭和3年(1928)8月、京都帝国大学を定年退職し、著述活動に専念します。

昭和15年(1940)11月に哲学者としてはじめて文化勲章を受け、昭和20年(1945)6月7日、尿毒症のため鎌倉姥ヶ谷の自宅で死去、享年76歳でした。

晩年は『日本文化の諸問題』(1940)、『世界新秩序の原理』(1943)などで大東亜共栄圏を翼賛する言動をみせ、西田の哲学は破綻をきたしたとされています。

挫折続きの人生

西田の人生を振り返ると、たび重なる挫折に驚かされます。

西田の生家は、代々加賀藩の大庄屋を務めた豪農で、幼少期は豊かでした。

ところが、姉と弟が亡くなったうえ、父が事業で失敗して破産して、一家は困窮することになりました。

西田幾多郎(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【若き日の西田幾多郎(出典:近代日本人の肖像)】

また明治23年(1890)4月、高等学校令の施行により第四高等学校の教育方針が変更されたことに抗議して自主退学します。

こんどは独学の道に進もうとしましたが、目の病気のために断念せざるを得なくなりました。

それでも学問への道をあきらめきれず、苦学のうえに東京帝国大学選科に合格したのです。

ところが、本格的に哲学を学んで卒業するものの、選科の卒業ということで、本科卒業生と差別されて就職先も見つかりません。

故郷に帰って、ようやく教諭の職についたものの、今度は職場内での内紛に巻き込まれて失職。

そこからは、縁を探して学校を渡り歩く生活となってしまいます。

そんな中で生活は安定せず、最初の妻とは離婚し、二人の娘や長男が夭折してしまいました。

うち続く困難の中で、西田が救いを求めたのが「禅」だったのかもしれません。

参禅するなかで、研究の糸口を見出した西田は、京都帝国大学でさらに思想を深化させていくことになったのです。

西田の人柄

前にみたように、明治42年(1909)学習院教授となり、ドイツ語を教えることになりました。

ちなみに、この時の同僚・英語担当教諭は高校同期の鈴木大拙、教え子は木戸幸一、原田熊雄、織田信恒、板倉勝央など、1級下に近衛文麿が在学しています。

木戸幸一(『貴族院要覧 昭和12年12月増訂 丙』貴族院事務局1937 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【木戸幸一(『貴族院要覧 昭和12年12月増訂 丙』より)】
近衛文麿(「近代日本人の肖像」国会図書館)の画像。
【近衛文麿(「近代日本人の肖像」国会図書館)】
織田信恒(『輝く憲政』自由通信社編(自由通信社、1937)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【織田信恒(『輝く憲政』より)】

明治43年(1910)に京都帝国大学に助教授として迎えられると、学習院の教え子たちは西田を慕って、多くのものが できたばかりの京大へ進学しています。

彼らとは、休みの日には一緒にピクニックに出かけて楽しく歌を合唱し、哲学の特別講義を行ったそうです。(『重臣たちの昭和史』)

このように、物静かで優しい西田は、多くの教え子たちに慕われたのでした。

西田の人柄を、京都帝国大学文学部で共に教授を務めた狩野直喜はこう記しています。

京都帝国大学の助教授に迎える際にも、深淵の差はあっても西田を見知った教授が多く、彼らがみな賛成しました。

狩野直喜(『京都府教育会五十年史』京都府教育会 編集・発行、1930 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【狩野直喜(『京都府教育会五十年史』より)】

さらに、狩野は西田の性格について、「常識に富み、繊細な人」「非常に常識があった人で、しかも外へは現さなかった。世態、人情についても深く解ってゐた人」としています。

また狩野は西田について、「意志の非常に強い人であった。教授会でも堂々と意見を述べ、決して容易にこれを曲げなかった。戦争が始まって、今に至るまでも学者でも変遷につれて浮沈したが、西田君は決してさうではなかった。あの男気は実に貴ぶべきものだった。」(「西田幾多郎君の憶ひ出」)

この西田をして、表面的にせよ、それまでの成果をなげうって、時局に迎合し大東亜共栄圏を称賛するほかなかったのです。

この事実からは、いかに この時代の圧力がすさまじかったのかをうかがい知ることができます。

なにかと自主規制と同調圧力が求められる現代、西田の「悲劇」を頭の片隅に置いておきたいものです。

西田幾多郎(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【西田幾多郎(出典:近代日本人の肖像)】

(この文章は、『重臣たちの昭和史 上』勝田龍夫(文芸春秋社、1981)、「西田幾多郎君の憶ひ出」『読書纂余』狩野直喜(弘文堂書房、昭和22年)および『国史大辞典』『日本思想史事典』『哲学事典』の関連項目を引用・参考して執筆しました。)

きのう(6月6日

明日(6月8日

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