7月5日は、明治19年(1886)、日本で最初の電力会社・東京電燈会社が開業した日です。
「電力危機」が叫ばれる最近、わが国の電力の歴史をたどってみましょう。
東京電燈設立
工部大学校の藤岡市助らによって、電燈事業の操業を提唱してきましたが、明治15年(1882)に東京貯蓄銀行頭取の矢島作郎がこれを受け入れたことにはじまります。
翌明治16年(1883)2月15日に政府の設立許可が下りて、渋沢栄一や大倉喜八郎らの支援を受けて、資本金20万円の有限責任東京電燈会社が誕生しました。
ところが、会社は役員4名、株主数64、従業員11人の小世帯で、発起人引受を除く公募株式8万円の払い込みが難航し、明治19年(1886)になってようやく完了して、7月5日の開業を迎えたのです。
明治20年(1887)には、わが国で最初となる一般供給用の発電所・第二電燈局を東京市日本橋区南茅場町、現在の東京都中央区日本橋茅場町に完成させて、一般向け電気供給を開始します。
この第二電燈局は、小規模な石炭火力発電所で、出力25キロワットのエンジン式直流発電機一台を備え、低圧直流電発・架空電線でした。
その後の電力需要の急増に対処するために、明治24年(1891)には高圧交流式を採用するとともに、集中火力発電所を明治28年浅草、明治38年(1905)千住に増設して日本最大の火力発電会社となったのです。
また、明治26年(1863)9月21日には東京電燈株式会社(通称・東電)に改称し、電燈照明の実用化と普及を図るなかで、企業集中を通じて資本を蓄積しました。
この間にも、明治23年(1890)には上野の内国勧業博覧会で電車を運行したことや、浅草凌雲閣のエレベーターを動かして、我が国における電動力利用のさきがけとなったのです。
若尾一族の経営
いっぽうで、経営不振の中にあった東電を明治28年(1895)に甲州財閥の領袖・若尾逸平により買収されて、「若尾財閥」とよばれた若尾一族による経営が行われることになりました。
その後、燃料価格の高騰もあり、水力開発を実施して明治40年(1907)山梨県の駒橋に1万5,000キロワットの発電所を建設して東京に送電を開始します。
この水力発電が割安な点を生かして料金を大幅に値下げしたために、電燈と電力の利用が激増すると、会社の収益も50%を超える増収増益となって、会社は空前の発展をとげました。
これ以後も安い料金設定を行ったため、電燈と電力の大衆化を促進してわが国の産業開発に大きく寄与したのです。
しかし、大正時代はじめの好況期に次々と電力会社が設立されて、大消費地東京で電力のシェアをめぐる企業間の競争が激化しました。
この激しい価格競争を勝ち抜いたのは、甲州財閥の重鎮で東電社長となった神戸挙一の辣腕によります。
神戸は、大正6年(1917)に東京市電気局はじめ二社と三電協定を結ぶいっぽうで、東電は水力発電に積極的に投資して供給力をさらに充実させて、東電の黄金時代を城築あげたのです。
関東大震災
大正12年(1923)に関東大震災で甚大な被害に遭った東電は、300万ポンドにおよぶポンド債を発行して復興資金を用意し、急ピッチで復興をとげました。
また、震災復興景気で電動力の需要が大きく伸びると、大正末までに19社と合併集中して規模を拡大して独占体制を維持しに努めます。
ところが、これらの企業買収により、過剰な発電設備を抱えることとなり、震災での損害とあわせて経営不振を招くことになりました。
さらに松永安左エ門率いる東邦電力が関東に進出してきたうえに、対抗策とした名古屋進出が失敗します。
またこの時期、立憲政友会の役員を務めていた社長の若尾璋八による社費の流用もあいまって、経営不振は深刻な状態にまでなっていました。
そこで、昭和2年(1927)に取引銀行の三井銀行頭取・池田成彬が経営に介入し、郷誠之助と小林一三を取締役に送り込んで若尾一族を会社から追放しました。
こうして郷社長、小林副社長の新体制が発足すると、小林は経営の合理化に腕を振るい、改革を実行しました。
さらにこの時期、東電はポンド債をはじめ英米から約2億円にものぼる外貨資金を導入していましたが、昭和6年(1931)に行われた金輸出再禁止による円の暴落で、元利払いに巨額の為替差損を蒙って、無配に陥ってしまいます。
この危機に対して東電は、電力連盟の結成や外債の買戻銷却を行うなどの経営の立て直しを行うことで対応します。
戦時体制へ
ここで満州事変以降の好況により、需要が急増して過剰電力の問題は解消されるとともに、会社の業績も急激に改善したのです。
昭和3年(1928)には過剰電力の消化を目指して昭和肥料を設立したほか、昭和14年(1939)には古河電工との均等出資で、大量の電力を消費するアルミニウム生産のために日本軽金属を設立しました。
こうして、昭和13年(1938)ころには電力の生産(発送電)と小売(配電)事業として日本で最大をほこる世界水準の大企業となったのです。
ところが、昭和14年(1939)に発送電施設の一部を日本発送電に出資したあと、昭和17年(1942)3月31日には国策により事業の主体が関東配電へと組織替えされて東電は解散に追い込まれました。
その後、関東配電は敗戦後の昭和26年(1951)5月1日に「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門による電力再編で東京電力となって現代に至っています。
東京電燈が日本で最初に一般供給用発電所を開設した明治20年(1887)は、世界で初めてロンドンで一般家庭用発電所が稼働したわずか5年10か月後というから驚きです。
しかしその歴史は、時代の変化や国策に翻弄されてばかりの印象を受けます。
現代においても、激動する時代の中で、電力各社の経営は国策に左右される状況にありますが、利用者である国民のためという基本に立ち返ってほしいものです。
(この文章は、『国史大辞典』『明治時代史大辞典』『日本史大事典』の関連項目を参考に執筆しました。)
きのう(7月4日)
明日(7月6日)
コメントを残す