7月8日は、1853年(嘉永6年6月3日)に、アメリカ東インド艦隊司令官のぺリーが黒船4隻を率いて浦賀沖に来航した日です。
そこで今回は、日本史の一大ターニングポイントとなったペリー提督の来航への道のりを、アメリカ側からみてみたいと思います。
ペリー来航前夜の極東情勢
西欧列強は、1840年代前半に中国との条約上の通商を開始したことで、アジア政策の焦点は極東で鎖国中の日本へと移していました。
そこで、先導的役割を果たす決意をしたアメリカ政府は、対日使節派遣を計画し、1833年からペリーを含めて合計8回にも及ぶことになりました。
とくに、1844年に米清通商条約締結後はさらに積極的となりますが、唯一成功したのが弘化3年閏5月27日(1846年7月20日)のビッドルで、浦賀へ来航したものの来航目的を果たせず退却を強いられたのです。
アメリカの野望
それでは、なぜアメリカはこれほど日本への使節派遣にこだわったのでしょうか? その背景をみてみましょう。
アメリカでは、1840年代後半には、国内産業が発達し、オレゴン(1846)、カリフォルニア(1848)と太平洋岸まで領土拡張に成功していました。
そうした中、中国貿易、なかでも上海貿易が飛躍的発展をとげつつあり、これを独占しつつあったイギリスとの競争意識が高まっていきます。
また、帆船から発展して汽船時代が到来したことで、太平洋横断汽船航路開設の要望は高まっていたのです。
いっぽうで、北太平洋における捕鯨業が隆盛するなかで、アメリカは日本に捕鯨船の補給や避泊港を求める声が高まっていました。
まさにそのころ、1846年ローレンス号、1848年ラゴダ号遭難海員に対する日本側待遇の非人道性が問題となったのです。
こうしてアメリカでは、ここまでみてきた経済上や人道上の問題が連鎖的・同時的に発生したことで日本への注目が一気に高まりました。
1848年海軍委員キングの意見書や、アメリカ合衆国第11代大統領ポークの12月教書などではアメリカの太平洋進出の必要性を述べています。
また、財務長官ウォーカーは躍進する国内産業のために中国市場拡大が不可欠であり、同時に中国航路にとっての日本の地理的重要性を強く訴えたのです。
ペリー派遣への道
こうした中、嘉永2年4月4日(1849年4月26日)海軍中佐ジェームズ・グリンは、長崎で幕府が従来定めていたオランダ商館経由の交渉原則を見事に打破し、みずからラゴダ号遭難海員の引き取りに成功します。
勢いづいたアメリカは、1851年5月にオーリックが全権委任状を受領して日本を目指すものの、途中で挫折。
しかし6月にはグリンが体験を踏まえて使節派遣建議を行い、政府へ成功へのきっかけを与えます。
こうして議会と世論が日本をめぐって高揚をうけて、ついに大統領フィルモアはペリーを東インド・シナ・日本諸海域艦隊司令長官兼遣日特使に任命したのです。
出発にあたっては、国務長官代理コンラッドが「大統領命令」として訓令しました。
この訓令では、対日交渉の歴史的過程を具体的に示したうえで、目的が海員の人道的待遇と、通商関係樹立の条約締結を成功にあることを、はっきりと指示したのです。
ペリー来航
こうしてみなさんが学校で習ったように、ペリーは4艦を率いて嘉永6年6月3日(1853年7月8日)に浦賀に投錨します。
久里浜で米国国書を浦賀奉行に手わたすと、来春の大艦隊での再訪を予告して、江戸湾小柴沖まで艦隊を進めて威嚇した後、退去しました。
このあと、綿密に練り上げた計画に従って行動してきたペリーにとって、気になることがありました。
それは、オランダの妨害やロシアの使節派遣により出し抜かれることです。
しかも、日本では将軍家慶が死去し、幕府は混乱状態であるとの一報が香港滞在中にもたらされました。
そこで、二度目の来航は1年後の予定を半年に早め、列国に先駆けるため、あえて危険な厳冬期の1月に行ったのです。
こうして行われた第二回訪日は、7艦からなる大艦隊を率いて安政元年正月16日(1854年2月13日)に江戸湾内小柴沖に投錨し、幕府のあやふやな対応に軍事的威嚇行動をとって、横浜での応接所設置を勝ち取りました。
そしてついに安政元年3月3日(1854年3月31日)日本で最初の近代的条約である日米和親条約締結成功したのです。
ペリーの日本観
じつはアメリカは国家としてもこれまでの経験を生かして綿密な計画を立てていましたが、ペリー本人も日本について事前研究に取り組んでいたのです。
ペリーは、使節内定と同時に関連する海図や書籍を収集し、オランダからは海図3万ドルに加えてシーボルト文庫を503ドルで購入。
さらに英国領事館経由で各種資料を入手しただけでなく、日本近海を航海した経験を持つ捕鯨船の船長や貿易業者を歴訪して海流や地勢、貿易事情などさまざまな知識を吸収しています。
この結果、日本の政府が圧力に弱いことを見抜き、交渉に生かしました。
また、実際に日本と日本人に触れたペリーは、日本人の礼儀正しさ、好奇心の強さ、器用さと、日本女性のかわいさを褒めたたえています。
また、日本人を敏捷で融通が利き、従順であるとしたうえで、西洋の高尚な文明の本質は理解できそうにもないが、生活スタイルだけは簡単に取り入れそうだ、と言い切りました。
はたして、現代の日本はペリーの予見したものと違っているのでしょうか?
(この文章は、『ペルリ提督日本遠征記』ペルリ(大同館、1912)および『国史大辞典』『日本史大事典』の関連項目を参考に執筆しました。)
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