前回、大野村奪還を目指した征長軍でしたが、長州軍の奮闘により撃退されてしまいました。
しかし、勝利を急ぐ徳川茂承からの命を受けている征長軍は、すぐさま再攻撃に移ります。
そこで今回は、征長軍のさらなる猛攻をみてみましょう。
7月30日大野村戦争
慶応2年(1866)7月30日午後2時、征長軍が大野村の東方・海岸沿いの大野口から6個小隊で襲撃します。
またもや激戦が展開しましたが、午後4時から大風雨に襲われてしまったのです。
長州軍は防戦が困難な状況となり、良城隊をはじめとする諸隊は松ヶ原へと撤退しました。
この撤退する長州軍を追って水野軍が進撃し、夕刻に大野村西教寺の旧本陣を回復します。
これにより、大野村は再び征長軍の手に戻ることになりました。
大野村奪還に勢いを得た征長軍は、宮内村方面や地御前、廿日市方面からも進軍して長州軍支配地域に侵入を開始したのです。
8月2日大野村・玖波村戦争
大野村を奪還した征長軍は、国堺を越えて一気に周防まで攻め込む作戦をたてました。
慶応2年(1866)8月2日、征長軍は大挙して大野村から周防国境へ二手に分かれて進撃を開始します。
一方は、西国街道を四十八坂へ進む軍で、幕府陸軍二個大隊と彦根藩軍の合計2,000人に、和歌山藩の明光丸と幕府の旭日丸ならびに和船数艘が海上から玖波村と小方村を砲撃して支援にあたりました。
もう一方は、松ヶ原の長州軍を攻撃する軍で、和歌山藩軍と水野忠幹の新宮軍合計500~600人が配置されます。
忠幹は、一個中隊で直接松ヶ原を攻撃、三個小隊で妹背滝から左右の山伝いに進み、一個中隊で滝ノ口から本道を進んで進軍する三手に分けました。
さらに、幕府陸軍二個大隊が標高597mの経小屋山を迂回して長州軍の横を衝かせる作戦に出たのです。
長州軍の迎撃態勢
いっぽう、これを迎え撃つ長州軍は、征長軍の攻撃をいち早く察知して四十八坂口と松ヶ原口に諸隊を配置します。
その陣容は、まず四十八坂口に遊撃隊一・五番小隊、御楯隊二・六小隊、良城隊一・三・五・七番小隊、維新団一・二番小隊のあわせて10個小隊と、遊撃隊臼砲2門を配しました。
そして松ヶ原口には衝撃隊三小隊、御楯隊二番の一小隊を配します。
さらに激戦が予想された滝ノ口には、致人隊を右方の山上、衝撃隊四小隊を山下、遊撃隊三・四番小隊、御楯隊五番の一小隊、維新団三・四番の二小隊を左方の山上に配したうえ、遊撃隊の臼砲2門を左右の山上に配しました。
これとは別に、勇力隊を経小屋山に配して備える作戦をとります。
四十八坂口の戦い
午前10時、征長軍が四十八坂口に到着すると、ただちに長州軍が鳴川村に出陣して迎撃にあたりました。
征長軍の攻撃は強力で、正午ごろから防御にあたる御楯隊と良城隊は押されて戦いながら後退を余儀なくされたのです。
この間に、遊撃隊は玖波村東方の丘に登り、御楯隊はその後ろの山に拠って防戦にあたっています。
その後、良城隊は新台場に還ると、守備兵とともに大砲を放って奮戦し、征長軍をなんとか食い止めました。
午後3時、ついに征長軍が玖波村に侵入、左方の山に拠ったうえ、侵入した軍の一部、幕府徹兵隊一・二番小隊は海岸に胸壁を築いて攻撃、これを明光丸と旭日丸などが玖波・小方村沖から乗り入れて激しく砲撃して支援にあたります。
この砲撃は、軍艦三艘と和船に大砲を乗せた三艘で行われ、ライフル砲が使用されたために命中率も高かったのです。
使用された砲弾もほとんどが外国製の輸入品で、砲撃に使用された弾数は300発に達したといいます。
地上での激しい銃撃戦と、海上からの砲撃が続くなか、夜に入っても決着がつきませんでした。
長州軍の救援
いっぽう、経小屋山に進んだ勇力隊は、3か所に分かれて、大野村から四十八坂にむかう本道を分断しつつ征長軍の攻撃に備えて、玖波村の征長軍を孤立させる行動に出ました。
これにくわえて、御楯隊二番小隊と致人隊は、玖波口での危機が伝えられると四十八坂山上に転進します。
そこからさらに玖波村に迫った征長軍の横合いに山伝いに回り込んで攻撃して、玖波村を防衛する長州軍を支援にあたったのです。
長い激戦が続いた後、前線に孤立する可能性が出てきた玖波村の征長軍は、ついに翌日の午前4時に撤退し、戦闘は停止したのです。
征長軍の総攻撃は、海上からの支援にもかかわらず、四十八坂口では長州軍に撃退されてしまいました。
総攻撃のもう一方、忠幹率いる松ヶ原口の戦いはどうなったのでしょうか。
次回は、松ヶ原の戦いから、芸州口最後の激闘となる8月7日大野村戦争をみてみましょう。
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