前回みたように、緒戦で大敗を喫した幕府軍は、いよいよ本隊の水野忠幹率いる新宮・和歌山藩軍に出撃の命を下しました。
はたして忠幹は破竹の勢いで進撃する長州軍にどう挑むのでしょうか。
そこで今回は、忠幹率いる新宮・和歌山藩軍と長州藩軍が激突した最初の戦闘、6月19日大野村戦争をみてみましょう。
水野軍参戦
長州軍は、征長軍先鋒の高田・彦根両藩を潰走させると、本陣を小方村に前進させるとともに、6月18日に兵を二手に分けて大野村へ攻撃を行いました。
海岸沿いの四十八坂を進んだ軍は、幕府軍艦の艦砲射撃を受けて、後方との連絡を絶たれることを恐れて撤退します。
いっぽう、山間の松ヶ原を迂回した遊撃隊四・五・六・七番小隊と維新団三・四番小隊は、19日の夜明けころ、大野村への攻撃を開始したのです。
大野村を守備していたのは、水野忠幹率いる水野軍と和歌山藩兵および幕府陸軍歩兵一大隊の銃隊5小隊、およそ1,000人で、すべてがミニエー銃を装備した西洋式軍隊でした。
忠幹は大野村の西教寺に入り、本陣としています。
6月19日大野村戦争
水野軍は長州軍の襲撃に対して直ちに備えを改めて、忠幹自ら陣頭に立って指揮しましたので、両軍譲らぬ激闘となりました。
長州軍は散兵隊形をとりながら進み、水野軍を射撃してきます。
長州軍の射撃の腕は高く、このときに少なくとも幕府歩兵差図役頭取の友成求馬ほか二名が死傷したのです。
この頃の銃は、発射の反動偶力から跳起角が生じて銃身が上向く傾向にあったので、射撃にあたってはそれを修正しながら撃つ必要がありました。
このとき長州軍は、低く撃つことに勤めていて、遠距離からの狙撃に習熟していたのです。
四十八坂方面
いっぽう、いったん後退した四十八坂を進む長州軍は、軍備を整えて午前8時から再び進軍を開始しました。
長州軍は四十八坂を越えると軍を二手に分けて、一方は本道を、もう一方は山を伝って進み、大野村を目指します。
忠幹は長州軍の動きを予想していて、大野村の西南の小山からの進軍に備えて、その左右の山に銃隊を配置していたのです。
長州軍は左右から水野軍の激しい銃撃を受けることになり、大隊の原甲太郎はじめ3人の中隊司令は恐怖にかられて岩陰に身を隠し、木陰に隠れて物も言わず、戦闘の止むのを待つような状態になったのです。
長州軍撤退
こうして中隊司令が逃げ隠れてしまうと、三中隊は指揮官不在の状態となり、混乱をきたしたのはやむを得ないところでしょう。
こうして部隊は午前10時頃撤退せざるを得ませんでした。
こののち、河瀬安四郎は、この三人の中隊司令の行動を6月20日付けで総指揮を執る藩庁政事堂に対して報告し、更迭を求めています。
22日に藩庁政事堂はこれを認め、新たに芸州口諸兵総指揮役兼摂の辞令を遊撃隊総督の毛利幾之進に発するとともに、三人を更迭しました。
結局、山手から迂回して攻撃した長州軍も、水野軍に阻まれて進軍することができず、撤退せざるを得なかったのです。
この戦闘における長州軍の死傷者は、戦死者4名、負傷者16名でした。
水野忠幹率いる軍に、第二次長州征伐ではじめて長州軍が敗退したことの反響は小さなものではありません。
征長軍は各方面での大敗が続いており、瓦解の危機さえありましたが、忠幹の勝利はこれを踏みとどまらせたのです。
そしてこの戦争を「四境戦争」とよび、郷土防衛戦争と位置付けてきた長州軍にとっても、各地での大勝で生じはじめていた楽勝ムードが吹き飛ぶほどの衝撃だったのです。
次回は、挽回に燃える長州軍の猛攻と、思わぬ事態の変化をみてみましょう。
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