校舎倒壊の危機!?(柳北小学校その6)

前回は柳北小学校の前身、柳北女学校が設立されたころをみてきました。

今回は、柳北女学校が大きく成長して柳北尋常小学校に生まれ変わるところをみていきましょう。

児童数の増加

明治9年(1875)に児童数95人でスタートした柳北女学校ですが、明治14年(1881)には150名、明治19年(1886)には215名、明治24年(1891)には549名、明治29年(1896)には770名と、年を追うごとに生徒数が増加したのです。

これに対応して、学級数も当初の8学級から明治14年(1881)には12学級、明治19年(1886)には15学級にまで増加、同年には小学校令の発布により学年編成が変わって明治20年(1887)には7学級となるものの、明治31年(1898)には15学級に増加しました。(以上『浅草区誌』)

唱歌・作文授業風景(「女子学校勉励壽語録」(横山園松、1887)国立教育政策研究所教育図書館貴重資料デジタルコレクション )の画像。
【唱歌・作文授業風景「女子学校勉励壽語録」(横山園松、1887)国立教育政策研究所教育図書館貴重資料デジタルコレクションwww.nier.go.jp

相次ぐ校舎の増築

こうなってくると、明治9年(1876)5月竣工の木造二階建校舎(44坪2教室・工費八六八円)では狭すぎますので、明治11年(1878)10月に第一回増築で校地西部に木造平屋20坪の教室、明治20年(1887)8月には第二回校舎増築で15坪の教室、そして明治22年(1889)1月には二階建煉瓦教室42坪と、次々に増築を繰り返すことになります。

これにともなって校地531坪5合1勺と拡張されましたが、明治20年(1887)4月に柳北女子尋常小学校と改称するとともに校内に附属幼稚園を設置して園児90人を迎え入れると、校舎はさらに手狭となったのでした。

ちなみに、この柳北女学校附属幼稚園が浅草区で最初の幼稚園です。(以上『浅草区誌』『柳北百年』)

授業風景(体操)(「少年少女小学校教科双六」少年世界第13巻1号附録、小波案・国観画(博文館、1907)国立教育政策研究所教育図書館貴重資料デジタルコレクション) の画像。
【体操授業風景(「少年少女小学校教科双六」少年世界第13巻1号附録、小波案・国観画(博文館、1907)国立教育政策研究所教育図書館貴重資料デジタルコレクションwww.nier.go.jp) 】

校舎倒壊の危機

さらに、明治27年(1894)11月には第四回校舎増築工事をおこなって、校地西部に90坪、東部に32坪の計122坪の大増築、さらに明治29年(1896)10月には第五回増築工事で17坪5合を増築を行うもののまだ問題解消に至らず、明治31年(1898)11月からは校舎がまだまだ狭隘のため、二回にわたって修繕増築を申請するものの、認められませんでした。

そうした折の明治34年(1901)7月には煉瓦教室に亀裂が生じるとともに、木造二階建教室も傾頽して校舎倒壊の危険が出てきてしまったのです。

この事態に、高等科生徒全員を新堀小学校に移して、同年10月修繕工事に着手、当座をしのぐことになります。

明治35年(1902)1月には修繕工事が終了して新堀小学校から生徒を引き戻し、明治37年(1904)8月には 第6回増築で煉瓦敷45坪の屋内体操場を建設しました。(以上『浅草区誌』『柳北百年』)

柳北尋常小学校誕生

そして明治40年(1907)小学校令改正されると明治41年(1908)4月には義務教育延長により、高等科を廃して尋常科を6年となりました。

これにより、校名を柳北尋常小学校に改称するとともに、明治44年(1911)からは男女共学となった結果、児童871名(男子288名・女子583名)となったのです。(以上『浅草区誌』『柳北百年』)

「柳北尋常小学校、大正2年ごろ」(『浅草区誌』下巻、東京市浅草区編(文会堂書店、大正3年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「柳北尋常小学校、大正2年ごろ」『浅草区誌』下巻、東京市浅草区編(文会堂書店、大正3年)国立国会図書館デジタルコレクション 】

新校舎建設

ここにきて、ようやく東京府は児童増加による校地狭隘の根本的解決を目指すこととなります。

まず、明治42年(1909)12月には校地内の附属幼稚園を廃止しました。

そして大正2年(1913)1月には校舎の全面改築に着手して、6月には木造三階建校舎竣工しました。

新校舎は18教室、建坪248坪73の規模で、建築費44,952円98銭、備品3,500円を費やしています。

この時の職員18名、児童951名で、工事中は全児童を福井、小島、新堀の三校を仮用して収容しました。(以上『浅草区誌』『柳北百年』)

大正12年の校舎(台東区設置案内板より)の画像。
【大正12年の校舎(台東区設置案内板より)】

初代校長三田利徳

この校舎新築をみとどけて、大正4年(1915)4月に初代校長三田利徳氏が退職します。

三田校長は、明治12年(1879)5月に着任しましたので、柳北小学校在任37年、うち校長として36年勤務。校長として一校36年の在任は、当時類例のないものでした。(以上『柳北百年』)

柳北小学校児童保護会設立

また、明治23年(1890)5月には柳北女子小学校校友会が設立されて学校教育活動の支援を行ってきましたが、これに加えて大正11年(1922)7月9日には柳北小学校児童保護会設立、初代会長野崎甲子郎が就任してさらなる支援が行えるようになります。

そしてはやくも大正12年(1923)2月27日には児童保護会の補助により5年生と6年生の児童が横浜を見学、現在の校外学習つまり遠足が行われましたが、これが浅草区における児童管外旅行のはじめとされています。(以上『柳北百年』)

下校風景(「少年少女小学校教科双六」少年世界第13巻1号附録、小波案・国観画(博文館、1907)国立教育政策研究所教育図書館貴重資料デジタルコレクション) の画像。
【下校風景(「少年少女小学校教科双六」少年世界第13巻1号附録、小波案・国観画(博文館、1907)国立教育政策研究所教育図書館貴重資料デジタルコレクションwww.nier.go.jp)) 】

今回は、明治9年(1876)に設立された柳北女学校が地域とともに発展して柳北尋常小学校へと生まれ変わる様子を見てきました。

次回は、学校を襲った未曽有の危機、関東大震災についてみていくことにしましょう。

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