前回みたように、第二次大戦末期には、生徒たちは集団疎開で親元を離れ、東京大空襲では6年生3名が犠牲になるというつらい時代となりました。
今回は、この困難を乗り越えて、戦後委教育が作り上げられていく、いわば「お手本」となった柳北小学校をみていきましょう。
柳北小学校再開
昭和20年(1945)8月15日に終戦を迎えると、占領軍司令部からは9月中旬までに学校授業再開の指令が出されます。
しかし、東京の極度の物資不足と治安状況から、児童たちの帰還がかなったのは、ようやく11月5日のことでした。
そして11月には、柳北小学校が浅草区南部総合教育所に定められて、柳北・福井・育英・精華・新堀の児童を集めて授業を再開しています。
これは、地元民が命がけで校舎を守った結果、柳北小学校が地域で数少ない教育施設がそのままの来る学校であったことによるのでしょう。
相次ぐ視察
そして、昭和21年(1946)2月文部大臣田中耕太郎が戦後の小学校教育の実情視察のため、文部省・東京都・浅草区の随員多数と共に来校しました。
大臣は児童自治会に出席し児童の質問に答えたと伝えられています。
さらにそのすぐ後、アメリカの体育官が体操科の実情視察のため来校しましたので、全学年体操の授業を行いました。
昭和22年(1947)4月1日には台東区が誕生したこともあって、東京都台東区立柳北小学校と校名変更しています。
教育基本法
昭和21年(1946)1月3日には日本国憲法が公布され、昭和22年(1947)3月31日には教育基本法、学校教育法が公布・即日施行されて、戦後教育がスタートします。
その第一歩として、4月には柳北小学校PTAが結成されて、初代会長に佐々木幸太郎が就任しました。
昭和23年(1948)11月には、アメリカ・オハイオ州コロンバス大学教育学教授ヘック氏ほか33名が本校視察しています。(『柳北百年』)
どうして視察?
ところで、どうして柳北小学校に相次いで政府やGHQ関連の視察が相次いだのでしょうか。
東京の中心部にあるという立地的な理由もあるのでしょうが、前に見たように、柳北小学校の施設が残っていたために、浅草区南部総合教育所に定められていたこともまた、大きな理由だと考えられます。
視察の目的
では、その視察の目的は何だったのでしょうか。
連合軍総司令本部(GHQ)は、日本が軍国主義へとむかった原因の一つが教育にあったと考えて、戦前の教育体制を解体する方針を決めていました。
しかし、「日本の戦前の教育体制の打破解体の後に、どのような教育体制を打ち立てるかということ」が問題となったのです。
このため、連合国総司令部は昭和21年(1946)1月に米国陸軍省に対して教育使節団の派遣を要請し、イリノイ大学名誉総長・ニューヨーク州教育長官ジョージ・D・ストグールを団長とする27名を教育使節団、いわゆる「アメリカ教育使節団」を日本に派遣することになったのです。(『東京都教育史稿』)
最終的にはこの使節団の勧告が新しい教育体制の構築に大きな役割を果たすことになるのですが、その前後にはGHQ自身も視察を行うなどして戦前日本における教育体制について調査をおこなっていました。
昭和21年(1946)に行われたアメリカの体育官が体操科の実情視察もこうした調査の一環だったのでしょう。
さらに、昭和22年(1947)3月31日には教育基本法、学校教育法が公布・即日施行されて、戦後教育がスタートした後には、第二次アメリカ教育使節団を派遣するなどして新しい教育制度の実施状況の確認を行っています。
おそらく、昭和23年(1948)11月のアメリカ・オハイオ州コロンバス大学教育学教授ヘック氏たちの視察も、同様のものだったのでしょう。
田中文部大臣の視察
ここで、昭和21年(1946)2月文部大臣田中耕太郎による視察に注目しましょう。
来校した時期はまさに第一次吉田茂内閣で田中文相が教育基本法を作成していた時期に当たっています。
田中耕太郎とは
では、文部大臣を務めた田中耕太郎とはどのような人物なのでしょうか。
明治23年(1890)生まれの田中は、商法学者・法哲学者として知られ大正6年(1917)から東京帝国大学法学部教授でした。
戦時中は法学部長として大学の自治を守る立場から荒木文相事件や平賀粛学事件などの解決に努めた経歴を持っています。
前に見たように、第一次吉田内閣で文部大臣となった後、参議院議員、最高裁判所長官を経て国際司法裁判所判事を務めました。
田中は、法秩序維持を最重要とする姿勢で一貫しており、そのもとでの大学、裁判所の独立を唱えています。
彼の法秩序万能主義は、警察予備隊違憲訴訟での合憲判決(昭和27年)や松川事件での多数意見に対する激烈な反論(昭和34年)など、当時から権威主義的傾向が強いとの批判を受けていていました。
戦後教育の構築
この田中が、戦後の新しい教育制度を作り上げる大役を任されたのですが、その根本をこう述べています。
「私の教育に関する関心は、根本的には従来の極端な国家主義的民族主義的理念の払拭とヒューマニスチックな平和主義的な理念の確立の必要性」にあり、「制度の面では、わが教育行政の一大欠陥は、明治以来の、中央と地方を通ずる官僚による教育の支配だと考え」ていたので、「教育行政の一般行政からの独立は教育者の自主性の擁護とその品位の向上に絶対に必要だと確信していた。」(「法学」)
教育基本法構想
そこで田中は、戦後の新しい教育制度を新憲法にすべて条文として入れるのではなく、別に法律を制定して基本理念を定めるアイデアを発表します。
田中は、戦前の教育制度では、その根本を教育勅語において関連する法が整備されていたものを、教育勅語に代わる法律を制定し、これを根本とする形で教育の法体系を築こうと考えたのです。
実際に田中の構想では、「(憲法議会において)教育勅語の性格や教育基本法の構想を明らかにする機会を持った」(「私の履歴書」)と記していることから、教育勅語と教育基本法が対応するものと考えていたことがわかります。
教育基本法の制定
前に見たアメリカ教育使節団の勧告によって内閣に設立された「教育刷新委員会」が教育基本法の要綱を作成、これを基に政府が教育基本法を作成しました。
こうして日本の新しい教育は、日本国憲法に基本的事項を定めた規定を設け、教育の根本的理念は教育基本法で定めて、これをもとに学校教育法・社会教育法・教育委員会法などが定めることで作り上げられたのです。
ともすると、GHQによって押し付けられたともいわれた教育基本法ですが、「関係の占領軍当局も割合に理解があり、当方の筋の通った主張は多くの場合に認められた」(「法学」)と田中が回顧しているように、田中たちの基本構想の多くが生かされたのです。
教育基本法と柳北小学校
ここまでみると、戦後教育の基本理念を定めた教育基本法の作成に文部大臣田中耕太郎が重要な役目を果たしていることがわかりました。
では、教育基本法を作り上げる中で、田中文相は柳北小学校で何をみたのでしょうか。
それを知るためには第五代校長増子菊善の時代に戻らなければなりません。
増子校長の「新教育」
増子校長は、生徒の自主学習を重視する「新教育」の指導者として名をはせていました。
とうのも増子訓導は、前任地の富士小学校で「新教育」を実践して大きな成果を上げていた上沼久之丞校長の下で薫陶を受けていたのです。
新教育あるいは新教育運動とは、これまでの紋切り型詰め込み教育を、児童たちの自発性を重視する教育へと変えていく教育改革運動で、19世紀末から20世紀前半に世界を席巻したものです。
日本でも大正デモクラシーと結びついて各地で大きな成果を上げていました。
浅草区富士小学校の上沼久之丞校長は、自由図画を手はじめに、手工、読書、綴り方と幅広く独自の教育スタイルを確立するとともに、実践することで大きな成果をあげていたのです。(『下谷浅草 小学校と児童の歴史』)
上沼校長のもとにあって、それをさらに深化させたのが増子訓導で、「児童は自ら学び、自ら伸びようとする天恵を裕かにもってゐる」(「自発的学習態度建設の過程について」)との信念をもとに、生徒の自主性を重視する教育法を編み出していました。
「新教育」と柳北小学校
じつは、「新教育」の世界的広まりを受けて、東京市もいくつかの実践校を設けてモデルとする取り組みを行います。
これに応じたのが、柳北小学校第四代校長小林茂で、その内容は、児童の個性を尊重するものでした。(『下谷浅草 小学校と児童の歴史』)
この柳北小学校における「新教育」は、昭和3年から導入されるのですが、小林校長の転任が決まったおりに、その後任となったのが増子校長なのです。
そこには増子校長が独自の教育法を編み出したことが考慮されてのことだったに違いありません。
こうして増子校長は、赴任した昭和8年(1933)4月から、自身が唱える「新教育」を柳北小学校で実践していきました。
すると、早くも成果を見せたことから、増子校長は昭和10年(1935)11月に異例の若さで高等官八等待遇となったのは、前に見たところです。(第9回「校長毒殺事件 事件解決編」参照)
ところがその直後の昭和10年(1935)11月21日に、増子校長は不慮の死を遂げてしまうのです。(第8話「校長毒殺事件」参照)
「新教育」の継承
潰えるかに見えた増子校長の「新教育」でしたが、後任となった第六代校長新方伊苗吉はこれを継承する決断をします。
この新方校長も昭和13年(1938)3月、在任中に病没してしまいますが、この後も時代の制約を受けつつも、後任の深見校長をはじめとする先生たちの努力で「新教育」の精神は受け継がれていくのでした。
はたして柳北小学校に流れる増子校長が残した「新教育」の校風が、田中文相の視察につながったのかどうかはわかりませんでしたが、児童自治会に出席することでその風に触れたのは間違いありません。
ですので、教育基本法制定の裏には、柳北小学校の校風が多少とも影響しているのではないかと私は考えるのです。
言い換えるならば、増子校長以来の柳北小学校に流れる気風が、戦後教育を作り上げるのに多少とも寄与したといってよいでしょう。
こうして昭和22年(1947)3月31日に公布・即日施行された教育基本法は、平成18年(2006)に第一次安倍晋三内閣のもとで改正されるまで(文部科学省Webサイト)、およそ59年にわたって日本の教育を支え続けたのです。
受け継がれる柳北小学校の精神
ここまで台東区立柳北小学校の歩みをみてきました。
柳北小学校は、平成13年(2001)に新校・台東育英小学校に統合、廃校となりましたが、学校の象徴であった復興校舎は、いまも現役で使われています。
旧校庭では、毎年8月後半に「柳北おどり」が盛大に開かれていますし、柳北公園も地元民の大切な憩いの場、とくに桜のシーズンは知る人ぞ知る絶景といってよいでしょう。
柳北エラーズの伝統も続いており、いまも柳北小学校の伝統は、地域の人たちの努力によって大切に受け継がれているのです。
この記事を作成するにあたって以下の文献などを引用・参考にしました。
また、本文中では敬称を略させていただいております。
引用文献など:
「東都浅草絵図」井山能知(尾張屋清七、嘉永6年)
『台東区史』東京都台東区役所 編集・発行、昭和30年
『台東区史(近代行政編)』東京都台東区役所 編集・発行、昭和41年
「猛火の裡より亡父の写真を」白石ヌヒ子『大正震災美績』愛情篇、東京府編、尼子止、大正13年
「自発的学習態度建設の過程について」増子菊善『実際の理論化』東京市富士小学校学習指導研究会 編集・発行、1928
『東京市教育施設復興図集』東京市編(勝田書店、昭和7年(1932))
『浅草区史 行政編』下巻、浅草区史編纂委員会 編集・発行、1933
『浅草区史 街衢編』下巻、浅草区史編纂委員会 編集・発行、1933
『浅草区史 関東大震災編』浅草区史編纂委員会 編集・発行、1933
『警視庁史 昭和前編』警視庁史編さん委員会 編集・発行、1962
「法学」田中耕太郎『わが道 Ⅲ』朝日新聞社 編集・発行、1971
『東京都教育史稿(戦後学校教育編)』東京都立教育研究所 編集・発行、1975
『柳北百年』東京都台東区柳北小学校創立百周年記念事業協賛会 編集・発行、1976
「辻潤年譜」『辻潤全集 別巻』高木護編(五月書房、1982)
「私の履歴書」田中耕太郎『私の履歴書 文化人15』日本経済新聞社 編集・発行、1984
「青酸カリ事件の思い出」槌田満文『文藝論叢 25』文教大学女子短期大学部現代文化学科 編集・発行、1989
『わたしの柳北』東京都台東区柳北小学校創立百二十周年記念誌員会 編集・発行、平成8年
『下谷浅草 小学校と児童の歴史』佐々木直剛、昭和58年初版、平成15年改訂
『東京府誌(皇国地誌稿本16)8市街誌 四十八』(東京都公文書館蔵)、東京府編(文化図書、平成24年)
『図面で見る復興小学校 現存する戦前につくられた東京市の鉄筋コンクリート造小学校』復興小学校研究会 編集・発行、2014
『日本プロ野球偉人伝 1956~58編』B.B.MOOK951、ベースボール・マガジン社編集・発行、平成25年
『日本プロ野球偉人伝 1959~64編』B.B.MOOK958、ベースボール・マガジン社編集・発行、平成25年
『ジャイアンツ80年史 PART3』B.B.MOOK1082、ベースボール・マガジン社編集・発行、平成26年
『ジャイアンツ80年史 PART4』B.B.MOOK1102、ベースボール・マガジン社編集・発行、平成26年
『台東区の復興小学校』、台東区文化財報告書第55集・台東区の歴史ある建物シリーズ3、台東区教育委員会生涯学習課文化財担当 編集・発行、平成29年
「教育基本法について」文部科学省Webサイト
参考文献:
『新版・学童疎開 その一年』福井邦弘・佐々木直剛 編集・発行、昭和46年
『学童疎開 下谷・浅草の記録』佐々木直剛 編(台東区学童疎開記録刊行会、昭和48年)
『浅草警察署史』浅草警察署史編集委員会 編(警視庁浅草警察署、昭和50年)
「教育基本法」「田中耕太郎」『国史大辞典』国史大辞典編集委員会(吉川弘文館、1979~1997)
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