前回は、五島盛利が藩政確立に強引とも思える姿勢で突き進んだところをみてきました。
しかし、なぜ盛利は急いで行う必要があったのでしょうか。
その一因として、五島特有の問題である異国船警備役に任ぜられたことがあるのです。
そこで今回は、五島藩に命じられた異国船警備役についてみてみましょう。
鎖国政策
幕府は鎖国政策をとって貿易対象国をオランダと中国に限ったうえで、貿易港を長崎に限定したことを学校で習った方も多いのではないでしょうか。
この政策によって、貿易船のほとんどが、五島列島の沖を航行して長崎に入ることになりました。
その途中に、天候の急変などで、どうしても五島列島の海岸には異国船がしばしば漂着することになるのは自然の成り行きといえるでしょう。
このため、五島藩としても異国船漂着に備えておく必要がありましたので、常備の臨戦態勢を整えておく必要があったのです。
もし異国船が漂着したら
一例として、異国船が五島の海岸に漂着した場合を考えてみましょう。
まずは漂着を確認すると、遠見番から代官、さらに福江奉行所へと報告されて、漂着船の乗組員やこれに接触するものがないよう監視します。
そして船が長崎まで曳航できる状態の場合は、監視しながら長崎まで曳航することになるのです。
曳航の際には合計で二十艘に上る船を用意し、水主や水夫を動員しなければなりません。(『海の国の記憶』)
金のかかる異国船警備
もちろん、この体制を敷くには莫大な費用がかかるわけで、藩財政を大きく圧迫したのは容易に想像できるところです。
このため、唐船については、その経費を唐人から徴収することにしました。
とはいえ、唐船以外といっても五島は小藩ですので、このシステムを維持するだけで大変な負担なのは言うまでもありません。
参勤免除
幕府としては、鎖国体制を維持強化するためにも五島藩の役割が不可欠。
ですから、異国船警備役を命じる代わりに、江戸在役、つまり参勤交代や京や大阪、江戸在番を免除したのです。
そのため、江戸時代約260年間を通じて参勤交代したのはなんと30回のみ。
参勤交代の供も天和3年期で家老1名から料理人2名まで合わせて42人と小規模でした。(『藩史大事典』)
幕府が大阪の陣で出兵が遅くても、大浜主水事件が起こっても五島藩を取り潰さなかったのは、おそらく異国船警備という特殊な役目があったからなのでしょう。(第18回「五島家の大阪の陣」参照)
異国船警備体制の確立
そのことは五島藩も十分に理解していましたから、異国船警備については万全の体制で臨んでいました。
寛永18年(1641)には五島列島内の要所である大瀬崎・嵯峨島・岐宿・富江・黄島・祝言島・宇久島の7か所に遠見番役所をつくって異国船の往来を監視・通報させることとなりました。
さらにその四年後は、異国船の通交が増えたために鬼岳・奈留・福見・友住の四か所を追加して整備し、遠見番所を合計11か所と増やしたのです。(『物語藩史』『三百藩藩主人名事典』『海の国の記憶』)
五島への移住促進
この異国船警備の費用負担がありましたので、五島藩は藩財政を改善すべく、少しでも収入を増やそうと工夫を続けます。
手はじめに、漁や製塩にも課税対象を広げましたが、それぐらいではまったく足りません。
そこでさらに、手ひどい飢饉が上方を襲ったおりには、京・摂津の流民を京都所司代・板倉周防守(重宗)に請うて五島に移住させて、土地を与えて田畑を開かせるといった移住策を行ったりもしました。(『海の国の記憶』)
現在、各地の地方自治体が行っているUターン・Ⅰターン政策を思い出しますね。
今回は五島藩が負った異国船警備役がどんなものかをみてきました。
莫大な費用がかかる異国船警備役ですが、他家にはできないこの御役目はいわば五島藩の生命線、なんとしてでも勤め上げる必要があったのです。
ここに藩主・五島盛利が藩政の確立を強引にすすめてきた理由の一端をうかがうことができたのではないでしょうか。
次回は、盛利がすすめた藩政の確立にたいする反動ともいえる、弟の盛清の独裁時代をみてみしょう。
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