前回は、五島に隠れキリシタンたちが移り住んできたところをみてきました。
今回は、五島藩に風雲急を告げることになるフェートン号事件についてみてみましょう。
フェ―トン号事件勃発
フェートン号事件とは、文化5年(1808)8月15日イギリス軍艦フェートン号が長崎港に突如侵入した事件です。
オランダ商船を捕獲する目的で、東インド総督ミント―の政策を受けて、イギリスの船舶であるにもかかわらず、オランダ国旗を掲げてオランダ船を偽装して入港したうえ、艦長のペリュー大佐はオランダ商館員を逮捕、さらに長崎奉行に飲料水と薪、食料を要求しました。
事件の背景
この事件、じつはヨーロッパがナポレオン戦争の真っただ中だったことが根底にあるのです。
当時、オランダ本国がイギリスと戦争状態にあったナポレオン率いるフランスの占領下にあったため、フランス傘下に入ったオランダとも戦争状態になっていました。
そこでイギリスは、オランダが東南アジアに持っていた植民地を占領し、東洋でオランダの残る拠点は長崎の出島だけという状況になっていたのです。
そのため、フェートン号はバタビアから長崎へと向かうオランダ船を攻撃することを目指していました。
ところが、長崎港内にオランダ船が不在であることを確認すると、出迎えたオランダ商館員を捕らえたうえ、なんと長崎奉行所に自分たちの要求を入れなければ長崎に停泊中の日本船や中国船を焼き払うと脅迫してきたのです。
事件の解決と影響
長崎奉行はこの要求をいれて、燃料と食料を供給することと引替えに、拘束されたオランダ人を釈放・返還させると、フェートン号は退去して長崎で戦闘が起こる事態は避けられました。
しかし、その責任を取って、長崎奉行松平康英は即座に自決します。
また、当時長崎の警備を担当であった佐賀藩も責任を問われて、家老深掘豊前などが自刃したうえ、藩主鍋島斉正(なりまさ)も閉門100日間の処分を受けました。
事件の余波
事件は、フェートン号の脅迫に屈さざるを得なかったという点で、日本の海岸防備が力不足であることをはっきりと示す結果となりました。
ですので、蘭学者で奉行所鉄砲方・高島秋帆らはこの事件をきっかけに戒告の必要性を上申しましたが、入れられることはありませんでした。
また、事件に先立つ文化元年(1804)ロシア船が開港を求めて長崎に来航したこともありましたので、フェートン号事件が起こると、幕府や西国諸藩で海防意識が一気に強まったのです。
これをうけて、幕府は文政8年(1825)に異国船打払令を出して鎖国と海防強化を出すことになりました。
五島における事件の影響
フェートン号事件から海防意識が高まったことで、幕府から長崎への航路上にある五島藩にも海岸防備の強化を命じられました。
この状況をうけて、五島藩も防備体制を整備するとともに、兵術訓練を強化します。
また、藩内でもフェートン号事件が起こると攘夷思想が強まって、ついには石田城築城の準備をはじめるとともに、幕府に築城許可を求めたのです。
しかし、その直後の文化6年(1809)5月に藩主盛運が亡くなってしまい、いったん石田城築城は諦めざるを得なくなったのでした。(以上『物語藩史』『三百藩藩主人名事典』)
今回は、フェートン号事件を受けて、海防意識が高まり、五島藩にも海岸防備強化が命じらるまでをみてきました。
そもそも、海岸防備のためにはその基礎となる正確な地図が必要となりますが、日本にはそのような地図がなかったため、あらたに作成する必要がでてきたのです。
次回は、こうした状況で新たな日本地図を作るために来島した伊能忠敬についてみてみましょう。
《フェートン号事件については、『日英交通史之研究』『維新前史の研究』『ヅーフと日本』に基づいて記事を作成しています。》
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